伊地知徹生(いじち てつき)Ijichi Tetsuki twitter Instagram
京都府出身 サンフランシスコ→サンタフェ→フィラデルフィア在住
レイン・トレイル・ピクチャーズ(RAIN TRAIL PICTURES)CEO
タイドポイントピクチャーズ(TIDEPOINT PICTURES)CEO
日本映画を全世界にグローバル配給
上映、配信の推進、コーディネートなどと併行し、
自作監督短編映画「ランドロマット・オン・ザ・コーナー」を完成
カルト・ムービーズ国際映画祭でBest Fantasy Short Movie賞を受賞
同作の長編映画化を企画中
著書「自主映画人ガイド」をkindle出版
twitter @IndiePro2 ツイッタースペースにて、映画界を語るルームをシネマプランナーズ社と共同で開催中(隔週日曜日の朝10時より)
しゃけさんと「映画の中の家族・夫婦・男女の描き方を検証する」ルームをクラブハウスでオープン準備予定
しゃけ:
伊地知さん、3回目の登場ありがとうございます!前回のインタビューはこちらです。映画好きの青年が20代でカンヌに行き、30代でアメリカ人の彼女(現在の奥様)ができて、本格的に渡米した1996年の頃のお話から聞かせていただけると嬉しいです。
伊地知さん:
はい。妻(当時の彼女)は90年代前半にカリフォルニアのベニスビーチにアパートを持っていて、ぼくは東京に住んでいたので、その90年代中盤までは日本とアメリカをB2ビザで行ったり来たりしていました。ロサンゼルスでビジネスの話があったので、ベニスビーチからバスに乗ってロサンゼルスのダウンタウンに向かっていた時、ライオット(ロサンゼルス暴動)に巻き込まれました。バスの運転手さんが、「これ以上は無理だな、全員降りてくれ」と言うんです。とにかくすごい光景を見ました。あたりは略奪と暴力で溢れ、あちこちで火と煙が出ていて、まるで映画のセットのようでもありました。黒人対韓国人みたいな構図になっていたのかな。自分もスーツを着ていたので被害にあう可能性を感じました。が、何とか無事にハリウッドまで歩いて行きました。そして迎えに来てくれた妻の車に乗せてもらって助かりましたが、人種差別への怒りの激しさを目の当たりにしましたね。
そのあたりの事は当時、記事(i-D Japan誌)にして書きました。その頃はまた、デジタル時代向けのカリフォルニア駐在編集員としてデジタルカルチャーを取材して日本に送ったり、日本から編集者がきて取材コーディネートをしたりしていたんです。でも、ロサンゼルスは危ないな、ということになり、サンフランシスコに引っ越しました。そして、妻はネットスケープという会社の法務部で弁護士になりました。
しゃけ:
ロサンゼルス暴動を体験されて、サンフランシスコに移られたのですね。そして1回目のインタビューにあるように海外ドキュメンタリー(主に、アジア系米国人のドキュメンタリー作品)をNHKに紹介していたと。
伊地知さん:
はい。またサンフランシスコは都会だから国際映画祭に招待された日本人の監督がたくさん渡米してくるので彼らとのパーティーも多かったですね。僕は生まれ変われるならニジンスキー(ロシアのダンサー)になりたいくらいダンスが好きなので(笑)アクティビティーのたくさんあるサンフランシスコを十分楽しみました。
三谷幸喜さんがいらしたときにはニューヨークとロサンゼルスでキャンペーン的なことをしました。ユニバーサルスタジオで試写会をしたり、アメリカのラジオに出てもらったりもしましたね。三谷さんが僕のことを「横山やすしに似ている!」と気に入ってくれて、僕の似顔絵を描いてくれました。
しゃけ:
三谷幸喜さん!?大好きです!
伊地知さん:
うん。「ラヂオの時間」の劇場公開からVHSやDVDまでをアメリカで配給させてもらいました。でも日本映画といえば黒沢明と思われているアメリカで、新しい日本の映画を扱ってくれるところはなかなか見つからなかったんですよ。「カンヌで賞を取った!」「村上春樹原作!」とか、マーケティングにフックがある作品はいいんですけどね。僕はそういう賞を取っていなくても面白い映画を紹介したい。さらに、やらないと決めている映画は「ヤクザ」「ゲイシャ」「ニンジャ」「サムライ」ものです。売れるからと言ってステレオタイプのものを広めたいのではなくて、日本のまだ知られていない良い映画を海外の方に知ってもらいたくて。
そこに「闇のカーニバル」の旧友山本政志監督が「ジャンクフード」でワールドプレミア(トロント映画祭)のためにアメリカに来ていたんです。彼は営業が得意で自らニューヨークのミニシアターに交渉して一般公開に成功しました。それを見て、上映素材がアメリカにあるのならばと、日本でやったように、自分たちで配給事業をしようとしました。我々自身でもできるぞ、と。そして「ジャンクフード」をアメリカとカナダの都市、およそ12カ所で上映することができました。
その後に、ビデオ配給を模索しましたが、劇場配給のような訳には行きません。販売ルートを持っているビデオ会社から発売するというのが必要だったんですね。
そんなわけで、いろいろなところで断られていたのですが、一つ興味を持ってくれる会社がありました。サンフランシスコのジャパニメ・マンガ出版会社なんですが、社長が日本人の方で、日本のアニメをビデオ化していたんですね。そのころアメリカで「ポケモン」が流行り出していた時期だったので、原作がアニメで、実写化されている映画ならどうか?と思ったんです。
社長が僕の意見に賛同してくれて、ジョイントベンチャー事業をスタートさせてくれました。12本ほどの日本映画を劇場ブッキングして配給し、ビデオ化して売るというものです。「ラヂオの時間」(三谷幸喜監督)「うずまき」(同名コミックが原作)「カオス」(中田秀夫監督2000年)などです。
しゃけ:
すごい!こういう新しい日本映画をアメリカに広めていたのは伊地知さんだったのですね?!
伊地知さん:
たぶん、僕しかやっていなかったんじゃないかな。インデペンデントで一番初めにやったのは僕だと思います。もちろん、賛同者やパートナーがいなかったら実現できなかったですが。当時、アニメ事業を始める日本人はたくさんいましたし、昔は、日活、東宝、松竹はアメリカの日本人街の中に映画館を持っていたんです。そこでは彼らの映画作品のみが日系人相手に興行されて、その中には黒澤明、小津安二郎、溝口健二の作品も入っていたようですよ。その辺のところは、私が寄稿した単行本「日本のポップパワー」(日本経済新聞社)で触れています。
とにかく、アメリカに上映素材があれば、ポスターやチラシを増刷するだけなんですよ。映画館が片道の送料も持ってくれるし、そうしたらビジネスとしてやっていけると思ったんですね。
しゃけ:
なるほど。アメリカでは日本アニメのブームが来ていましたよね。(私も1998年から2004年はロサンゼルスにいました)サンフランシスコでお仕事があるのにサンタフェに移動した理由も教えていただけると嬉しいです。
伊地知さん:
その頃DVDは北米で1万本以上は売ったんじゃないかな。DVD興隆期でしたからね。
また、サンタフェは撮影のロケーションとして盛り上がっていた場所で、ある時は「East meets West」(岡本喜八監督・脚本、真田広之主演)を撮影していたのかな。「今サンタフェで撮影しているけど見に来る?」とプロデューサーから連絡があったりして、結局現場には行かなかったけれど、「映画を作りたい」といつも思っていたので興味がありました。
サンタフェは、風光明媚な田舎町です。西部開拓時代のニューメキシカンの建物があちこちにあるんだけど、日系人の歴史的な足跡もあるんですよ。日系人収容所があったんですよ。今もちゃんと日本人会があり、秋祭りとかね。日本食レストランもあるし(新鮮な海産物が取れる地域ではないので、寿司はいまいちですが)、日本語を話せる地元の人が意外にいたりして驚きました。
ちょっと山の方に行くと、「千と千尋の神隠し」みたいな湯屋、スパがあるんですよ。そのスパ、「テン・サウザンド・ウェイブ」の経営者と仲良くなって楽しかったです。その方は日本に行ったことが全くないのに大変な日本びいきで、日本からあらゆるものを調達していました。今ではコロナ禍の前までは年間に二、三回日本に出かけているし、ついでに日本酒の輸入業にも手を出しています。湯屋にはビデオライブラリーがありアニメや実写映画も見られるようになっていますよ。最近は、創作日本食レストランも始めたようです。
サンタフェでは、一人の日本人の映画学生と出会いました。彼は半年弱僕の会社でインターンをしていました。今はキャスティング会社を日本で立ち上げてネットフリックスとも仕事してるんじゃないかな。英語がちゃんとできるからハリウッド映画で日本人をキャスティングする時には彼に連絡がいくと思う。映画界でその道の第一人者になっていますね。もうそれ以来、彼と顔を合わせていないけど。その岩上さん以外にも、サンフランシスコでインターンをしていれていた人たちも日本に帰って映画関係、洋画配給とか、テレビの仕事に就けたという話を聞きました。
しゃけ:
サンタフェに日本人コミュニティがあるとは知りませんでした。でも現在フィラデルフィアということは?
伊地知さん:
家を留守にしている間に泥棒に入られたんです。サンタフェの家は敷地だけは1エーカー程もあったんです。野っぱらの中に家がありましたから、野兎はいるしコヨーテは夜になると徘徊しているし、馬を乗った人が敷地内を通り過ぎたりと。自然がいっぱいで僕は好きだったんですけど、隣の人に会うのに時間がかかる。(笑)あと、業界でDVDが売れなくなったので、新たな事業を始めなければいけないという焦りもありました。
家が荒らされた事件があってから、妻が一人で家にいられなくなったんですね。精神的にも肉体的にも神経質になり、僕が一人で出張することはできなくなりました。フィラデルフィアには妻のお姉さんもいるし、大学時代からの友人もいるしということで、フィラデルフィアに移ることにしました。そこで妻は「Tokyo Firewall」という小説を書き上げたんです。東京に引っ越した米国人二人しかも黒人カップルが主人公になっています。元々映像化前提で企画が出来、彼女自身が小説化した訳なので、是非映画化したいと思っていますね。ネットフリックスでできないかなあ。
しゃけ:
わ!映画化?ネットフリックス?!楽しみです!!
伊地知さん:
今、妻が車椅子ユーザーになる以前から、身体の、心のハンディーキャップや負い目を持った人たちの映画に興味がありました。例えば、これもモノクロ映画ですが、「おそいひと」(2007年公開)は、脳性麻痺を持つ重度の身体障碍者が殺人鬼という映画です。あと、「西北西」(中村拓朗監督作品)はレズビアンの女性とそのパートナーとイラン人学生の3人が主人公になっています。「片袖の魚」(2020年)はトランスジェンダーの女性が主人公です。このような作品が今徐々に注目されてきていますよね。サンタフェ時代に立ち上げてフィラデルフィアで本格始動したレイン・トレイル・ピクチャーズでは、このような作品、日本映画に限らずアジア作品の海外配給・配信をやっています。
しゃけ:
なるほどなるほど。今日も貴重なお話をありがとうございました。伊地知さんご自身も現在出版準備中とのことですので、そのお話を次回聞かせていただきたいです。引き続きどうぞよろしくお願いします。
伊地知さん:
はい。また次回を楽しみにしています。