社会の中で疎外されている人や事に光をあてたい!山本政志監督作品「闇のカーニバル」でカンヌ映画祭へ行った自主映画人、伊地知徹生(Ijichi Tetsuki)さんvol.2

伊地知徹生(いじち てつき)Ijichi Tetsuki twitter Instagram
京都府出身 サンフランシスコ→サンタフェ→フィラデルフィア在住
レイン・トレイル・ピクチャーズ(RAIN TRAIL PICTURES)CEO
タイドポイントピクチャーズ(TIDEPOINT PICTURES)CEO
日本映画を全世界にグローバル配給
上映、配信の推進、コーディネートなどと併行し、
自作監督短編映画「ランドロマット・オン・ザ・コーナー」を完成
カルト・ムービーズ国際映画祭でBest Fantasy Short Movie賞を受賞
同作の長編映画化を企画中
著書「自主映画人ガイド」をkindle出版 
twitter @IndiePro2 ツイッタースペースにて、映画界を語るルームをシネマプランナーズ社と共同で開催中(隔週日曜日の朝10時より)
しゃけさんと「映画の中の家族・夫婦・男女の描き方を検証する」ルームをクラブハウスでオープン準備予定

「闇のカーニバル」撮影時の伊地知徹生さん
Takaharu YASUOKA©

しゃけ:
伊地知さん、NY1page2回目の登場ありがとうございます。第一回目はこちらです。大学生時代(当時の早稲田大学第二文学部演劇専修・自称映画専攻)には年間400本近い本数の映画を観ていたというところの続きからお話いただけたら嬉しいです。

伊地知さん:
高校時代はポピュラーなグループというのかな、男友達とつるんでワイワイやるっていうことを経験しなかったんですね。因みに、好きなTV番組が「木枯らしの紋次郎」でしたが、それもあって、大学ではもっと刺激がほしいというか、能動的に動きたい!と願っていました。

東京に行って当時あらゆる映画を観られるだけ観られたというのは大きな財産でしたね。フィルムセンターで観た黒澤明の「白痴」(長尺版)に非常に感動しました。こんな美しい映画があるんだ!と。20代の時にどんな映画を観るか、どんな本に出会うかで、その後の人生に大きな影響を与えるということはあると思います。その頃に影響を受けた本は数冊あって、その内の一冊は森岩雄さんの「映画製作の実際」です。そして、佐藤忠男さんの数々の映画評論や教育評論著作でした。中でも、「映画をどう見るか」でした。

森岩雄さんの本では、「とにかくAからZまで、なんでも経験をしろ」と書いてあったので、とにかくなんでも経験するぞ!と、気合の入った大学時代を送りました。アルバイトニュースを毎日見て映画に関係のありそうなバイトを探していました。芸能プロダクションで見習いの仕事(DJやミュージシャンのブッキング)や、フジテレビの幼児番組「ピンポンパン」で番組制作のアシスタント(子供たちが使うおもちゃの工作)などを経験しました。その後に、映画館の35ミリの映写技師見習いも経験しました。

しゃけ:
映画の世界に入っていく第一歩ですね。

伊地知さん:
映画の世界は就職活動をして仕事ができる世界ではないかもしれないですね。コネというか、人脈づくりが初めの一歩だと思います。卒業間近には、大学の演劇の先生の紹介で、尊敬するあるプロデューサー(ATGのプロデューサーであり演劇プロデューサー)に「弟子にしてください」と彼のオフィスに頼みに行ったことがあったんですが、「自分でおやりなさい、私は歳だから」と断られたのも衝撃でした。

人脈づくりのために大学の映画サークルにも入りましたが、サロンの延長のような感じで刺激的ではなかったんですね。そこで、自主映画をつくりたい人を集めて自主サークル「しねまん」を立ち上げました。

同人誌「しねまん」を発行!

当時、「フジ8ミリコンテスト」というのがあったのでそこに作品を出して賞をもらおう!というのを目標にして、3万円の製作費で作りました。1本の映画を作るという目標を持っただけで、大学の垣根を越えてどんどん映画好きの若者が集まってきました。映画とはこうやってできていくのだな、というのを一から知ることができましたね。しかも、フジ8ミリコンテストの学生賞を受賞できたんです。5万円の賞金をいただけました!

学生賞受賞の記念メダル

しゃけ:
え!!初めて作った映画で賞を取って利益も出すなんて!!すごいですね!!

伊地知さん:
嬉しかったです。業界紙からインタビューを受けたり、雑誌「ぴあ」とも繋がりました。ここで知り合った仲間や友達たちは、のちに映画監督になっていきましたね。現役で今でも活躍しています。楽しく燃えた青春時代というのかな、「映画を作ろう、映画界を変えてやろう!」と本気で思いましたね。グループ内で作った映画が僕の自主映画監督第一作目でもありました。

サイレント映画「空白の悪魔」

しゃけ:
そこで作った人脈が「闇のカーニバル」につながるのですか?

伊地知さん:
そうですね。その前に、当時の吉祥寺ムサシノ館や高田馬場にあった東芸という小劇場などで自主映画を集めた映画館を主催したり、他のグループの上映会に行って作品を見てたりしていた頃に、面白い監督たちと出会い、80年代初頭に連続して、松井良彦監督の「豚鶏心中」(とんけいしんじゅう)と山本政志監督の「闇のカーニバル」の製作に関わらせてもらいました。そして、後者の映画がカンヌ映画祭とベルリン国際映画祭に出ることになったんです。もう宙に舞い上がりましたね。ベルリンには行きませんでしたが、カンヌへの旅が私の初めての海外旅行となりましたね。

「闇のカーニバル」

しゃけ:
カ、カ、あのカンヌ映画祭!?ですか?

伊地知さん:
まだ20代でお金の蓄えもなかったので、寄付を募ってカンヌまで行ってきました。衝撃でしたね。海外の映画祭、映画マーケットがどのようになっているのかというのを肌で感じることができました。一瞬は浮かれましたが、まだまだ自分が未熟だということを甚く痛感して帰ってきました。学ばなければいけないことがたくさんあるな。と。

カンヌに来ていたアメリカ人と日本人のご夫婦と知り合いになったのですが、お二人はクズイエンタープライズの経営者でした。なんと、私が憧れて弟子にと頼みに行ったプロデューサーの甥っ子さんだったんですね。それがきっかけで、海外の作品を日本で配給する仕事に携わることになりました。彼らが買い付けてきたアメリカのインデペンデント映画を映画館にブッキングして、日本で売れるような宣伝・マーケティングをする配給業務でした。

しゃけ:
まさに、人脈からの就職だったのですね。

広告代理店の映像制作から、ワーナーでの宣伝の仕事、そしてクズイの下で、スパイク・リー監督の「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」やジョナサン・デミ監督の「ストップ・メイキング・センス」、スーサン・サイドルマン監督の「スミザリーン」などの仕事をしてから、洋楽をもっと聴くようになりましたね。例えば、トーキンズ・ヘッズは元よりローリングストーンズ、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、ラモーンズなど。片手間で、「セックス・ピストルズのデッド・オア・アライブ」というドキュメンタリーの公開宣伝で知り合った某ロックバンドのライブをブッキングする手伝いもし始めたのもこの頃です。彼らとはその後(クズイを離れてから)彼らのCDデビューを手伝い、録音先のニューヨークで最後には今は亡きCBGBでギグをしましたね。

それから、クズイエンタープライズのオフィスで現在の妻に出会いました。妻はアフリカ系アメリカ人ですが、当時日本で国際法律事務社の弁護士をしていて一本のフランス映画をクズイエンタープライズに持ち込んで来たんですね。その会議は私が担当しました。結局、その映画は配給に至らなかったのですが、僕の好きなロックバンドを見て欲しいと思って彼らのライブによく誘いました。

しゃけ:
英語でデートに誘ったのですか?奥様のことも詳しく教えていただけたら嬉しいです。

伊地知さん:
カタコトの英語で頑張っていました(笑)
妻は学歴でいえば、ハーバードとスタンフォードを卒業し、加州の弁護士の資格を持っています。当時の日本で黒人女性で弁護士として働いていたのは彼女一人ではなかったかな。そして、ダンサーです。日本では舞踏家の大野一雄先生に師事して舞踏の稽古をやっていたようです。その当時から今までに数々の契約書に目を通すことがあったので彼女から法律の基本を学びました。難病を抱えてからは、作家として小説を書いています。

クズイエンタープライズを離れたあと、彼女と一緒に会社を立ち上げました。コンセプトは「黒人文化を日本の若い人たちに伝える」ということです。私たちが中華レストランに二人で行った時、空いているテーブルがたくさんある、むしろすべてのテーブルが空いているのに、わざわざ奥のトイレの前の席に案内されるということがありました。人種差別を肌で感じた瞬間でした。

現代の日本でもまだまだ黒人差別があります。また、日本国籍がありながらも日本人と認められていない人たちへの差別、「ハーフ」と呼ばれる人たちへの差別を劇映画やドキュメンタリー、そして音楽を通じて、少しでも日本の皆さんに関心を持ってもらいたいと思いましたね。

しゃけ:
確かに。コロナでアジア系への差別もありましたし、罪のない黒人男性が白人の警官によって射殺される事件もありましたね。

伊地知さん:
うん。差別問題は根が深いです。
妻と一緒にやり始めた事業では、スイート・ハニー・イン・ザ・ロックというアカペラグループをワシントンD.C.から呼んで東京で手話入りのライブイベントを開催しました。TBSが取材に来たり、落合恵子さん主催の「クレヨンハウス」からも応援を頂きました。黒人女性たちのメッセージ性、感性を紹介することができたかな、と思います。日本初の黒人映画祭を開いたのも私たちのチームでした。

当時の黒人映画祭「シネ・ブラック」のチラシ

その前後に、シカゴから総勢50名近くのビックバンドを呼んで、東京、名古屋、大阪、神戸、横浜でコンサートをしたのです。画期的なコンサートではありましたが、これが財政的に赤字になってしまい、憔悴しましたね。
音楽業界で成功する難しさを知りました。自分自身がもう何もやる気がなくなる状態になってしまって。ミュージックマガジンや他の雑誌でのライター業を通じて黒人文化を取材して執筆活動はしていましたが、90年代前半は失敗を経験した苦い時期でしたね。

また、日本での仕事では同調圧力に負けてしまうということも経験しました。「ザジ ZAZIE」という映画に僕は企画プロデューサーとしてクレジットされていますが、「疎外された」と感じる出来事がありました。
脚本作りから参加し、映画資本を見つけるために企画営業に行ったのは自分だったのに、会社のトップの会長は僕には会わずに直接監督に打診をしてたんです。話し合いのプロセスなしで、材料を取りあげられたような気分でした。フリーランスの自分は競争もできずに企業の中ではつぶされてしまったと感じました。と同時に、会社に対して不信感が湧き上がってきました。企業内で自分の思っていることを通すには厚い壁があり、ある種のスキルや経験値が必要であるのだな、ということを実感しました。

しゃけ:
なるほど。そういうこともあって、差別や疎外されている人たちに光をあてたいと思ったのですか?

伊地知さん:
そうですね。僕の実弟は高校生の時に目が見えなくなって過ごしてきたんです。そんなこともあり、今は何らかの障害を持つ、あるいは疎外されていた人が主人公として描かれている映画やドキュメンタリーにすぐに眼が行きますし、実際にそんな登場人物がいる劇映画やドキュメンタリーを配給しました。
また、アフリカ系アメリカ人の妻と一緒にいることで、日本の外から日本を見られるようになりましたね。日本人として認めてもらえない日系の人たちや、アメリカにいるアジア系アメリカ人、LGBTの方々。これらの人々の真実の話に関心を持ってもらいたいという気持ちは続いています。例えば、1992年にロサンジェルスで暴動がありましたが、その背景となる黒人の低所得地区と韓国コミュニティをルポして、当時の i-D Japan誌に載せてもらいました。その後には、それを題材にした韓国系アメリカ人のドキュメンタリーをNHK に供給しました。これも妻が手伝ってくれました。

しゃけ:
全てが今のお仕事とつながっているのですね。90年代前半の憔悴のあと、カリフォルニアに移住して・・・というお話もじっくり聞かせていただきたいです。

伊地知さん:
はい。90年代後半は仕切り直しをしようと、妻と一緒にサンフランシスコに行きました。

しゃけ:
続きは次回ということで。引き続きどうぞよろしくお願いします。

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