新岡がアメリカへ渡ってきたのは、2006年にイエール大学医学部で小児心臓血管外科部長として迎えられたからだ。生まれて3日目の赤ちゃんの心臓を手術し、まだ一週間もたっていない。新岡はその子をひょいと抱き上げた。「赤ん坊の回復力は、ものすごく早いのです。この子は手術しなければ1ヶ月ももたなかった。命を救ったことで、親は神に祈るかのように手を合わせて、心から感謝してくれます。そういう時、この仕事にやりがいを感じます」
心臓外科は命に直結した手術のため、手術中は集中してストレスを感じることもあるという。それでも生まれながらにポジティヴだからか、リスクの高い手術でも必要ならば引き受けてきた。2010年には、200人近くの手術を行ったが、そのすべてを成功させた。
子供のころ、病気がちだった母に連れられて病院へ行くうち、外科医の格好よさにひかれ高校時代から外科医を目指した。医学部を出るころには、手術で自分が患者の寿命をのばすことのできる心臓外科の道へ進もうと決めた。
経験を積むため、当時、日本で一番心臓手術を行っている東京女子医大に入局し、13年近く、目の前の患者の命を救うため、ひたすら手術の研鑽を続けた。35歳だったとき、ハーバード大学に留学、世界の一流どころが集まるところには凄い人がいるのだと実感する。そこで出会ったのが、ドクタージョナスとドクターマイヤーだった。
彼らに影響され、帰国後も再生医療の研究に没頭していった。それからは目の前の患者だけでなく、10年後20年後の患者を救うため、新しい治療法を開発することが目標に加わった。とはいえ、日本の大学病院で研究しながら、患者を手術する臨床、研修医たちへの教育というバランスをとりながらの生活は大変だった。
常に海外を意識し、留学後、日本に戻ってからも主に英文で研究発表を続けた。甲斐あってイエール大学から部長のイスを用意するから来ないかと誘われた。
来米してみると、オフィスにはたくさんの秘書がいて、すべての雑務をこなしてくれる。自分は、研究や手術だけに集中することができた。
日本では、患者の事務書類を書いたりする仕事も医者が行うため、上へあがればあがるほど忙しくなり、行き詰まりを感じているところだった。「日本にいれば教授として将来は安泰でしたが、まだまだチャレンジしたい気持ちが背中を押してイエール大学からのオファーを受けました。根が楽観的だからか、アメリカに行ってもなんとかなるだろうって思っていました」
アメリカにいて気づいたのは、海外で活躍する日本人の研究者、留学するチャレンジ精神のある日本の若者が減ってきているということ。
「海外に出て広い視野をつければつけるほど、研究に対する世界観はもちろん、人間としてキャパシティーも広がるんです。自分達が海外で日本人の成功例を増やせば、日本にいる若い人たちのモチベーションをあげることにつながるかもしれないって思って、アメリカでチャレンジを続けています。イチローや松井にはおよばないかもしれませんけどね」
2010年、新岡の「自らの細胞を使って血管を蘇生する」という再生医療に対し、米国FDAより認可がおりた。これによって心臓手術に人工血管を使っていた小児に、自らの細胞でつくられた血管が埋め込まれるため、およそ5年に一度、成長ごとに必要となる心臓の再手術をしなくてよいのだとか。前向きな外科医は、これからも心臓を患う子供たちに命を与えるだけでなく、よりよい人生を与え続ける。<敬称略 取材 ベイリー弘恵>
【プロフィール】
新岡俊治(しんおかとしはる)
広島県出身。1983年に医師免許を取得後、東京女子医科大学日本心臓血圧研究所外科へ外科研修医として入局。93年医学博士学位取得。翌年、ハーバード大学、ボストン小児病院留学。3年後に再び東京女子医大へもどり翌年、講師に就任。2001年、東京大学大学院工学系研究科の非常勤講師就任。04年に東京女子医大にて心臓血管再生医療分野大学院教授、2006年にイエール大学の小児心臓血管外科部長に就任。2012年よりオハイオ州へ移住、Nationwide Children’s Hospital心臓血管再生医療のディレクターである。日本の再生医療、人工臓器、心臓外科関連の評議員、指導医。米国胸部外科学会会員