NY1page10周年記念第二弾!「もうこうなったら歌ってしまえ!」NY1page創始者、ライター・作詞家・音楽プロデューサーBIROさん

しゃけ:
<NY1page10周年記念インタビュー第二弾>として登場していただくのは、世界で活躍する日本人アーティストを応援するサイト『NY1page.com』の創始者であり、現在は音楽活動をされているBIROさんです。

BIRO
福岡県北九州市出身 NY在住 
ライター・作詞家・音楽プロデューサー
プログラマーとして就職 東京へ
1996年 渡米 ニューヨーク ハーレムへ
メールマガジン「ハーレム日記」でヒット
NYでプログラマーとして就職
育児に専念(3児のママ)
2002年 NY1page.comを立ち上げる 
「お母さん業界新聞」でしゃけのインタビューを受ける
日系会社のITサポート
NY1page.com LLC代表
ITヘルプデスクで見た光景を歌にする
NY在住の日本人エンターテイナーを応援! 
NYで生きる!ベイリー弘恵の爆笑コラム   
弘恵ベイリーのtwitter         
弘恵ベイリーのFacebook    

しゃけ:
10周年おめでとうございます!BIROさんと私も知り合って10年?早いですね!NYに来たきっかけから教えていただけると嬉しいです。

BIROさん:
インタビューにご協力してくださった皆様、読者の皆様、ライターの皆様、いつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

NYに来たきっかけは、高校時代に社会の先生から勧められた二冊の本、ハーレムの熱い日々(吉田ルイ子さん)、アメリカ合衆国(本多勝一さん)を読んだことがきっかけです。ハーレムに自分も住んでみたい、ニューヨークで働いてみたいって思うようになりました。ハーレムの黒人社会をお二人が書いてることは、とても興味深かったです。黒人社会のパワーに圧倒されましたね。

映画では「クルックリン」(スパイク・リー監督)が70年代を描いてます。これはブルックリンの話なんですけど、NYにも同時に憧れてました。ビジネスや経済やエンターテイメントの中心地だし。黒人社会やカルチャーに興味の軸があったので、ヒップホップやラップとかを聴くようになっていきました。

高校時代には、自分がキャリアウーマンになって、オフィス街にある高層ビルの中で働いてるところをイメージしてたなぁ〜。

しゃけ:
高層ビルで働くキャリアーウーマン、流行っていましたよね。私も文学部出たのに、なぜかビルの9階のIT関係に就職(超就職氷河期)しました。

BIROさん:
私は、バブル期の大学卒業だったため、卒業前からITソフトウェア開発の会社に青田買いされて、東京へ就職しました。私も経済専攻の文系だったけど、ITの会社に入る前と入ってから数ヶ月は、ITソフトウェアやプログラムの基礎を学びました。そこで海外で働けるかな〜って思ってて。マクドナルドの仕事が来たときに、アメリカに行けるチャンスかもって、そこの部門に異動したいって頼んだけど、新人は無理って言われ。アメリカに就職するのが厳しいならと、アメリカ人の彼氏をつくることをがんばったりして。。。NYに来るまでに、とんでもない遠回りをしました。
バカだったな〜。。。NY出身ならばいいのかな〜って、NY出身を狙ったり。

しゃけ:
初婚は日本人の方だったのですよね?結婚で九州に戻ったと。

BIROさん:
いったんは結婚を選んで九州に戻ったのですが。やはりず〜っとNYに住む夢をあきらめられずにいて、結果、昼は輸出入関係の会社、夜には運輸会社で簡単な作業と2つ仕事をして旅費をためて、思い切ってNYに来ました。
夫には3ヶ月だけ住みたいからと、普通に旅行という形で、ビザなしで来ました。90日以下ならビザがなくても滞在できます。
来てしまうと、案外、あっさりしていて。なんだ、こんなものかって。。。こんなに遠回りせずに、さっさとお金貯めて来ればよかったです。でもいざ離婚となった時はやはりつらかったです。家族や周囲にも迷惑をかけ、つらい思いをさせてしまったので。その分、自分の気持ちには、覚悟ができました。

しゃけ:
そこがすごいですよね。若さと勢いでしょうか。英語は大丈夫でしたか?

BIROさん:
私たちの時代は、中学1年生の時からしか学校で教えてくれなかったですから。会話のレベルはいまだに低いです。1年生のときは、とてもいい先生だったのでテストも高得点だったんですが、2年生になったとき、先生が変わってみるみる成績が落ちていき不安をおぼえました。近所の駄菓子屋のおばちゃんから、大学の英文科に通っている近所のお姉さんが生徒を探しているって話をきいて、母にお願いして家庭教師をしてもらうことになりました。そこで、しっかり基本の文型を教わっていたんです。高校では、英語の授業をなまけていたので、そこから先はアメリカ人の彼氏とかとの会話から、ほぼ独学です。つい最近、偶然居合わせた、隣町に住む日本語を学んでるアメリカ人と日本語で会話しました。毎週1回、日本語を先生に教わっているらしく、家の子供たちより、はるかにうまく会話できることに驚きました。20年以上アメリカにいても、私はたいして英語が上達してないですし、やはり語学は、ちゃんと学ばないと、できるようにならないのだって痛感しています。

しゃけ:
とりあえず、行っちゃえ!と行ってみたNYで、どんなことを体験されたのですか?

BIROさん:
アラサーだったのですが、NYに来てみると、年齢に関係なくはじけられるってことがわかりました。住まいは当時まだヤバいエリアだったアルファベット・シティーあたりだったけど、若者がたむろしているイースト・ビレッジで、ルームメイトの日本人男性と一緒に暮らすことになり。マウンテンバイクを買って、マンハッタンの街の中を走ったりとか、バーテンダースクールに通ったり。BDCダンススクールでアフリカンダンスとか、ジャズダンスをやったり。夜はクラブやバーに繰り出し、昼夜ともに刺激的な暮らしでした。もう日本には戻れないのかなぁ〜って思ってました。

夢のようなNY生活3ヶ月を終え、日本に戻ってみると、すでに夫も新たな暮らしへと向かっていました。しかしいざ離婚となると、とてもつらいものでした。自分たちだけでなく、家族にも悲しい思いをさせるわけですから。
離婚後、またニューヨークへ舞い戻ることに。日本ではITの会社でキャリアがあったので、仕事探しをはじめ、PCに関係する半導体などを取引する会社へ就職が決まりましたが、なんとようやくビザをとって働き始めたところ3ヶ月で倒産。

なんとかしなくちゃぁ〜って焦って、軽くお付き合いしたアメリカ人男性にまで「結婚してほしい」とゴリ押し。そんな簡単に誰も結婚してくれるわけないですよね(笑)

めげずに就活を続けたおかげで、ITの会社にプログラマーとして就職することができました。仕事をはじめて、一人暮らしするためハーレムへ移り住んだことで、NYでキャリアウーマンとして働くことと、ハーレムに住むという夢を果たせた感はありました。

しゃけ:
(笑)いまでこそ笑い話になりますが、当時は生きていくのに必死だったのではないですか?でも全体的に楽しそう。

BIROさん:
ハーレム暮らしは、90年代の終わりだったので、今のように簡単ではなくて。最初に住んでたドミニカンの多いエリアは、上の階にドラッグ中毒の人がいたりして、警察を何度も呼んだことがあります。

次のアパートにも、ドラッグディーラーの爺さんが1階に住んでましたが、とてもフレンドリーでした。同じアパートの住人たちは、とてもフレンドリーで花屋のスージーが2階に住んでいて、お隣にはゴミ収集の公務員のおじさんが住んでいたり、上の階のおばあちゃんとも、とても仲良くしてました。ゴミ収集の大きな車から、お隣のおじさんが大声をあげて手をふってくれたときは、誰?って驚きましたけどね。

当時は、ハーレムに住んでいると、ジャズを好きなときに聴きにいけるし、昼から爺さん婆さんが酒を飲んでるバーで、一緒に酒を飲んだり。今はオシャレなバーばかりになってるんですが、当時は、魔窟のようにシワだらけの婆ちゃんが厚化粧してやってたバーとかもありました。古びたジュークボックスとか置いてて、爺さんたちによくナンパされてたなぁ〜。70代とかでも平気で30代の女性をナンパできるパワーのある爺さんたちが、たくさんいました。

そんなハーレムの日常を書こうって、趣味ではじめた「ハーレム日記」というホームページとメールマガジン(当時はブログという形態がなかった)がヒットして、ライターとしてデビューすることになりました。ハーレムを日本に紹介する日本人として、米紙NYデイリーニュースの取材もうけたことがあります。高校時代からNYにあこがれていて、本当にハーレムに住んでみることにあこがれていて、その夢をかなえたっていえるかも、ですよね。

しゃけ:
昔はホームページとEメールしかなかったですよね。スマホはもちろんWi-FiもYouTubeもない世界。だって、海外へ電話料金もものすごい高額でしたよね。

BIROさん:
そうですね。ナビもグーグルマップもなかったですよね。
ハーレムを離れてからは、育児に専念することを今の夫が望んだため、職場復帰できず、10年間はライターやリサーチの仕事を自宅でやってました。All aboutというサイトで「NYで暮らす」を担当していたのですが、そこからお払い箱になったこともあって。やはり自分で書きたいことを書くためには、サイトを立ち上げたほうがいいと思い、NY1page.comをはじめました。ライターのしゃけさんをはじめ、様々な方々が協力してくれて、おかげで10年も続けることができています。
All aboutの「NYで暮らす」の記事は一部に私が書いた記事がまだ残っています。
https://allabout.co.jp/gm/gc/77597/

育児も落ち着いてきたので、ようやく職場復帰ってなったときに、プログラマーでは、技術の進化についていけてないくらいギャップがありすぎるので、ヘルプデスクとして戻ることになりました。いろいろな日系の会社でITサポートを続けてきましたが、ITのトラブルを解決したり、新しい技術を学ぶこともエキサイティングですし、ユーザーさんと接することも楽しいので、案外プログラマーよりも向いてるのでは?って思ってました。

残念なことにCOVID-19の環境下で、リストラにあってしまって。。。それで音楽をつくろう!って思い立ったのです。きっと、ITのヘルプデスクの人たちって、こういう悩みを抱えてる人がいるはずって思って。かなりデフォルメして作詞をしています。事実に基づくフィクションということでとらえていただけると・・・。

しゃけ:
BIROさんの音楽はこちらで再生できます。
Living Hell Helpdesk
Job Hunting on the Web
Our lives are fleeting

BIROさん:
日本にいる作曲や編曲をやってくれるLTMさん、そしてYOUTUBE用にアニメーションをつくってくれるPaぬさんにお願いして、音楽をプロデュースしています。YOUTUBEでは、日本にいるシンガーShouさんが歌ってくれてるのですが、本来は自分が歌いたいのでつくってもらった音楽です。
この音楽のとおり、今は私の夢を叶えてくれる会社が見つかったみたいな感じです!まったく不満もないし、楽しいばかり。これまでの勤め先の中でも一番幸せを感じています。

先日友人から、「今、一番やりたいことは何?」って聞かれて、「せっかく音楽をつくったのだから、人を集めて自分が歌いたい!」
「それじゃあ、まるでドラえもんに出てくるジャイアンみたいだね」って、二人で大笑いしました。
CBGBでプロとして演奏していたエイジアン・マシュルームのSHIGEちゃんがドラムやってくれるって言ってくれてるので、ドラマーは決定です。これからメンバー募集なのですが、それもまた楽しみです。
https://ny1page.com/2013/12/17/kiku12172013/

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