CBGBからデビューした唯一の日本人バンド
ドラマー、音楽プロデューサー
中村恵明
エイジアン・マシュルームは、今や伝説として語りつがれているロックバンドの聖地であったライヴハウスCBGBから1999年にCDデビューした唯一の日本人バンドである。メンバーは二人だけだが、パンチの効いた中村のドラムに唸るような金城のギターが重なり、コンピュータを使った迫力あるエレクトリックなサウンドが多くのニューヨーカーを魅了した。
「CBGBで演奏していたころは人気もあって有頂天になっていたからか、俺たちの音楽を聴かせてやるというおごりがありました。今は、音楽を聴いてもらって皆が楽しんでくれれば、それが自分のためにもなるのだとわかったのです」人に聴いてもらう、いい音楽をつくるためには妥協を許さない。
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中学生のころから独学でドラムをはじめ、高校時代にはすでに学校や公民館などでライヴ活動をしていた。高校を卒業後、バンド活動をするためにあてもなく東京へ出た。音楽をやる仲間を集めるのには苦労しなかった。「居酒屋でバイトしていても音楽やってるといえば、すぐにバンドやろうよって仲間になったり、音楽好きが集まるライヴハウスへ行けばすぐに仲間ができました」
4人編成でエイジアン・マシュルームを始めたが、メンバーが練習を怠けたため音づくりに妥協を許すことのできない中村は解散を決めた。その後、金城の申し入れで再度二人で活動を開始。年間120本のライヴをこなす人気バンドへと成長した。だがここでも満足することはなく、世界から注目をあびるロックバンドの聖地CBGBでの演奏を目指した。
ニューヨークについて1週間もたたないうちに、CBGBへブッキングに行った。デモテープを聴くこともなく中村の情熱におされ、あっさりとブッキングされた。「ニューヨークってやる気のある人にはチャンスを与えてくれる街なのだって実感しました」
初の演奏は、ほかのバンドの招待客で超満員の中で行われた。アジアの男二人が何を始めるのかと思っていた客だったが、彼らが演奏を始めると雷に打たれたように衝撃をうけた。CBGBのマネージャーは、「面白い奴らが演奏している」とオーナーにすぐさま電話。CBGBと専属契約が決まった。同年に期待されていたCDデビューであったが、不運にも金城が日本帰省中にバイク事故にあい瀕死の重傷を負った。「一人でニューヨークに戻りましたが、CDを売り出したとしても、一人では全米ツアーやライヴ活動をできないので、CBGB側ともめました。もうCDは出ないって諦めていたのですが、自分たちのCDがビートルズなどと一緒に店頭で並んでいるのを見たときには感動しました」
翌年からは、金城も復帰しCBGBで月に2度のライヴをこなし、メジャーなライヴハウスでも頻繁にライヴを行った。「街を歩いていても、昨日の演奏よかったよって声をかけてくる人もいて、自分たちの音楽がニューヨークでも認められていったことはうれしかったです」
911のテロが起こったとき、35歳になっていた。ちまたにはライヴハウスで音楽を楽しんでいる場合ではないという自粛ムードが流れた。中村自身も悲惨な状況や家族を亡くした人たちを目の当たりにするうち「音楽は人に聴かせるのではなく、人に聴いてもらうためにあるのだ」と少しずつ気持ちが変わっていった。CBGBからも客の足が遠のき、契約も翌年に切れたため、エイジアン・マシュルームはやむなく解散した。
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今後は本来のエレクトリックな音楽を続けながらも、ギターやベース生楽器を主体とする、アコースティックでポップな音楽をつくっていくのだという。
「今も音楽を続けているのは、自分たちが売れることやお金のためではありません。俺たちの音楽を人に聴いてもらって楽しんでほしいからです。人が楽しんでいれば、自分も楽しいと感じます。みんなと音楽の楽しみを共有している瞬間って光のように輝いているのです。その光をもっと見たくて、もっといい音楽をつくっていこうって思います」
12月22日のJ-SUMMITにてShigeの演奏が聴けます!必見です。
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