翻訳一筋25年~翻訳会社を経営する松尾菊さん~Part1

NY高層アパート23階のお部屋でネコちゃん2匹と自由に暮らす!翻訳一筋25年・翻訳会社経営 松尾菊さんにインタビュー

しゃけ:

NYの住み心地はいかがですか?

菊さん:
私 はNYは今日で6ヶ月と2日目です。その前はサンフランシスコ・ベイエリアに21年住んでいました。気候もゆるやかで、美しい自然に囲まれた住みやすい環 境から、なぜ突然NYへやってきたのと皆に聞かれます。特にこれという具体的な理由はないのですが、21年も同じ地域に住み同じ職業を続けているとどうし ても自分のやりたいことだけ無理せずやってしまいます。独身で依存するものもされるものも居ないので(猫2匹はいますが)、このままだと同じパターンを ずーっと続けてしまうだろうなと感じておりました。また年齢的に何かもう1度チャレンジするならそろそろやっておかなければ遅すぎることになるとこの何年 か感じていました。アメリカ国内行き先はどこでも良かったのですが、以前東海岸(ボストン)に2年間住んでいていつかもう一度東海岸に住んでみたいと思っ ていたのと、SF時代からのアメリカ人の親友がNYにいることもあって、去年の8月突然引っ越す決心をしました。

しゃけ:
翻訳会社を経営されている・・・ということは社長さんなのですか?

菊さん:
すごく小さな翻訳会社を持っています。正社員は私だけですが、仕事の内容に応じて、ベテランの翻訳者達や編集者達に手伝って頂いています。彼女、彼らとは十数年のお付き合いです。専門は技術とビジネス。翻訳歴は25年ほどになります。

http://www.technoxchange.com
http://www.linkedin.com/in/kikumatsuo

よ く「通訳なさるんですか」と聞かれることがあります。知らない方には、言葉を他言語に変換するという意味で通訳と翻訳は同じと考えておられる方がいます が、実は全く別の職業です。通訳というのは、その場の流れを秒単位で把握して同時にそれを相手言語に変換するという作業です。翻訳、特に技術翻訳は、 じぃーっと原稿を眺めながら、脈絡を見つけるために文書のあちこちをひっくり返したり、分からないことはInternetで調べたりしながら作業を進めな ければなりません。通訳でそんなモタモタしたことをやっていたら即座にクビになります。私はのろまなのと、多数の人間の前で話すのが死ぬほど苦手なので、 通訳はちょっと不向き。でも性格的には結構ねばり強いので翻訳はぴったり。

25年間やっていても全然飽きていないし、今でも翻訳が3度のご飯と同じくらい大好きでたまらないというめでたい人間です。翻訳以外何もできなくて常識も持ち合わせていないという困った人間でもありますけど・・・。

しゃけ:
仕事が楽しくて楽しくてやめられない!という感じですか?

菊さん:
そ うですね、翻訳という仕事そのものがいやになったことは一度もありません。この仕事に携わることができて本当にラッキーだったなと思います。私は書くこと が好きですがゼロからの創作力はありません。でも翻訳は、元の言語を如何に明解に目標の言語に変換していくかという点で多少のクリエイティビティが必要で す。そのあたりで私の能力を発揮することができるような気がします。

た いていの仕事は楽しいですが、場合によっては藁人形に針を刺して呪いたいときもあります(笑)。原文はけっしてきれいに書かれたものばかりではありませ ん。技術者が土壇場になって提出しなければ上司に怒られるからと書きなぐったようなものもあります。ひどいときは、たった1行の文章を30分くらい眺めた り、関係がありそうな書類を調べたりしても全く言葉にならないことがありました。私だけではなく、仕事をしてもらっている翻訳者達からも、「いくら見てい ても分からないので、言葉だけ置き換えましたが、あとは菊さんの方で処理してください」「仕事中に鼻血が出ました」などと言われたこともあります。私は出 産したことがないのですが女性の翻訳者から「出産よりも大変でした」と言われたこともあります。それでも翻訳者さん達はみな辛抱強いので、いっしょに仕事 をしてくださいます。

技 術翻訳は、どこまで書かれている技術の内容の脈絡を理解できるかが勝負です。原文を最初に見たときは、あまりに分からなくて頭の中が白くなることもありま すが、スルメのようにじっと噛んでいるいるうちに頭の中で「あっそうか」とつながってきます。もちろん技術翻訳にもいろいろありますので、必ずしもスルメ とは限りません(笑)。とても見事な文章を書かれるエンジニアも沢山いらっしゃいます。

しゃけ:
自宅でお仕事されているのですよね?

菊さん:
イ ンハウスの翻訳者としての会社勤めを止めて自宅で仕事をするようになった時は、朝起きてまず近所のコーヒー屋さんへ行ってコーヒーと買ってくるというパ ターンで頭の切り替えをするようにした時期がありました。翻訳者というのは、自己管理ができないと難しい職業です。何しろ誰も相手がいなくて、1人だけで 長時間作業しなければなりませんから。ちょっと不規則な生活習慣がつくと仕事もどんどんだらしなくなってしまいます。

仕事の連絡は95%くらいEメールで行うので、大きな仕事が入って忙しくなると、生活はベッドとコンピュータの間の行き来、話し相手は猫だけということになります。下手をすると1週間くらい人間とまともに話し合わないというようなこともあります。

翻訳者という職業は、外交的な人やビジネスの駆け引きを生きがいとするようなタイプの人間には向きません。

技術やビジネスの翻訳は常に締め切りに追いかけられているので、他のことを考える余裕がありません。そんな状態で25年経つうちに、翻訳以外のことは殆ど何も知らない浦島太郎みたいな人間になってしまいました(笑)。

よ くストレスがたまるでしょうって聞かれるのですが、締め切りではプレッシャーは殆ど感じなくなりました。だいたい原稿を見ればどのくらいの時間が必要かと いうのが分かるので、自分で仕事するときはどういう時間の采配をすれば見当がつきます。また締め切りでプレッシャーを感じていたら25年は続いていなかっ たと思います。
でも、他の翻訳者や編集者に仕事をアサインするときは、できるだけプレッシャーがかからないよう、時間をできるだけあげるようにし ています。また翻訳者や編集者によって、プレッシャーの感じ方が違うので注意しています。ちょっとでもプレッシャーをかけると過敏に反応する人と、逆にか なりプレッシャーをかけないと動いてくれない人もいますから(笑)。

しゃけ:
個人会社を作ったきっかけを教えてください。

菊さん:
一 にも二にも自由ですね。とにかく何でも自分の意志で決められること、何にも束縛されるないことが願いでした。もちろん人間が生きていく限りなんらかの制約 や約束事はありますが、最低限の制約と約束事だけにしたかったんです。仕事のスリルですかと聞かれたこともありますが、気が小さいのでスリルは好きじゃあ りません(笑)。アメリカは定年制度というものは特にないようですので、それを心配していたわけでもありませんでした。特に翻訳というのは頭さえしっかり していれば死ぬまで続けられますから。

一緒に仕事をしている方で、最先端のモバイルテクノロジーの難しい技術翻訳を見事にこなしている80歳くらいの方がいます。私もできればこの仕事をずっと続けていたいです。

私 にとって「自由であること」は常に最優先です。海外というのは、過去から開放されますし(別に過去悪いことしたわけじゃないですが)、1から新しい自分を 自由にチャレンジできます。また、アメリカという国は本人にやる気とある程度の能力さえあれば、年齢、性別、学歴、国籍を問わず受け入れてくれます。私は 日本を離れて長くなってしまって日本の実情が分からなくなっているので大きなことは言えないのですが、日本はアメリカほどには私のような人間をすんなりと 受け入れてくれないのではないかと推測します。

しゃけ:
渡米前、日本での生活のことを教えていただけますか?

菊さん:

日記をつけていないので正確に覚えていないのですが、日本を最初に出たのは1982年の1月だったと思います。28年位前になりますね。

そ の前は10年近く現代美術を扱う銀座の一流の画廊で働いていました。オーナー夫妻に大変かわいがって頂き、画廊のお客様や画家の方達からも信頼して頂きと ても楽しく、若くて世間知らずなのに結構将来も期待してもらっていました。でも外国を見てみたい、何か知らない世界で冒険してみたいという気持ちがつのる 一方でした。10年近く大事に画商の卵として育ててくださったオーナー夫妻に辞めたいとなかなか言い出せず悩んだのですが、前から好きだった英語を磨くた めにアメリカへ留学したいと言ったところ、最初はだいぶ引き止められたのですが、結局は金銭的な応援もしてもらった上、気持ちよくアメリカへ送り出してく ださいました。画廊の仕事は若い私にとって、銀座というステキな町で現代美術の作家や評論家が毎日何人もやってくるし、新しいこともどんどん覚えられるし 刺激的でした。無我夢中で仕事をしたのですがあまりに若い年齢で何も他の世界を見ないうちにその世界に入ってしまって、次第に「もっと違う世界を見たい」 という気持ちが強くなりました。

「海外で自由な1人暮らし」がそのころから夢と少しずつ膨れ上がりました。

というわけで、外国へ一度も行ったことがなかったのにいきなりボストン大学へ英語留学。半年はTOEFLの点数を上げるための外国人向け英語コース、そのあとは大学のコースを1年半受けました。

ボ ストンは、当初1年の予定でした。いくら用意したのか忘れましたが、高い私立の大学の学費と寮費を1年分貯めるのがやっとでした。でもあまりに1年が短く て、あまりに外国での生活が楽しくて、親にグチグチ「1年あっという間に過ぎちゃった」みたいな泣き言の手紙を書いているうちに、昔から可愛がってくれて いた叔父が「菊ちゃんが頑張っているから」と100万円をカンパしてくれてもう1年滞在することができました。25年以上前ですから100万円というのは 結構大金でした。それでもちょっと足りないので、キャンパスのカフェテリアでアルバイトもしました。

授 業は最初の半年の英語集中コースの後は、英語のコンポジションや好きだった美術史の授業をもっぱら受けました。テストは、英語が結構お粗末だったのです が、教授が英語を大目にみて結構良い成績を付けてくれました。期末に提出するペーパーは、アメリカ人の友達に文法を直してもらったり、どれもが楽しい思い 出です。

ボストンでの2年の留学後に東京 へ戻って、もちろん仕事はないし英語がそれほどうまくなったわけでもないので、途方にくれました。でも前から関心のあった翻訳の仕事をしてみたいと思って いるときに、たまたま広げたジャパンタイムズの広告のページにテクニカルライティングと自動翻訳講座のクラスがあるのを見つけて早速申し込みました。

ち なみに自動翻訳(マシントランスレーション)はその頃から少しずつあちこちに登場するようになっていたようです。私が受けたのはテクニカルライティングの クラスでしたが、そのクラスを受け持つアメリ カ人講師の授業がとにかく滅茶苦茶面白くて、短期間でしたが一生懸命勉強しました。

その短期コースが終わるときにそのアメリカ人講師が、翻訳サービスを含む日米コミュニケーションコンサルティング会社を経営していることを知り、よろしくと挨拶し、それから半年ちょっと経ってから見習いの翻訳者として雇ってもらえることになりました。

そこで約2年、主に日本の大手通信事業会社の文書の翻訳をみっちりやりました。翻訳者としての基礎を作る貴重な2年でした。通勤の電車の中でも仕事をしました。また当事はまだDOSの世界だったPCの使い方も基礎から教えてもらいました。
そ うした中で、その会社がカリフォルニアに事業所をオープンすることになり、Operation Managerを兼ねた翻訳者としてアメリカへ派遣してもらえることになりました。1987年の12月です。アメリカで仕事をしたいと願っていた私にとっ て本当にラッキーでした。その後1995年まで勤めたあと独立し、1997年10月に自分の小さい会社を作り現在に至っています。

素晴らしい人達とのラッキーな出会いのおかげで好きな翻訳の道を追いかけることができました。これからも出来るだけ長く翻訳を続けていきたいと思います。

しゃけ:
日本人がアメリカで会社を立ち上げるというのは簡単なことではないと思うのですが。

菊さん:
ア メリカで個人経営の会社を作るのはそれほど難しくないと思います。もちろん法人とするには少し複雑な手続きが必要です。ただ、登録手続きとか書類申請など が極めて苦手な私は、全部を公認会計士やそうしたたぐいのサービスをする会社に頼んでやってもらいました。事務処理はとにかく苦手なのと、何かの書類ミス などで問題があると怖いので私は税金でもなんでも全てその方面の専門家にお金を払ってやってもらっています。その分空いた時間は翻訳のために使っていま す。そうした最初の手続きさえきちんとして、あとの税金などの処理をきちんとやれば、こちらでの会社設立は大変ではないと思います。州によって若干手続き や手順が違っているとは思いますが。

翻訳 会社に勤めていたので何をすれば良いか分かっていましたし、お客様さえあればやって行けることはわかっていましたからそれほどの冒険ではありませんでし た。また当事はカリフォルニア州シリコンバレー界隈の半導体業界が盛況でしたし、日米の景気も良かったですから仕事の心配はあまりありませんでした。<取材・執筆 しゃけ>

<パート2へつづく

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