平成に生まれながらも、あこがれている俳優は三船敏郎、好きな映画は黒澤明監督の作品や、チャップリンの作品だという。「売りになるかわからないのですが、人から昭和の匂いがすると言われるんです。好きな映画やあこがれている俳優さんは、昭和の銀幕にでていた俳優さんが多いので、そういう俳優になれたらって思っています」もちろん今時の新しい映画も観るが、どちらかといえば古い作品で、落ち着いた内容のものを好む。
「大きいドラマがおこるとかではないけれど、人の気持ちが大切に描かれているような作品を好んで見ています。フィルム・フォーラム(グリニッジビレッジにある非営利の映画館)で下町映画祭をやっていたことがあって、黒澤明監督の『生きる』を観ましたが、こういう映画に出演者として呼ばれる俳優になりたいと改めて思いました。
今、私たちは、100年前に製作された映画を当たり前に見る事ができるわけですが、その監督や俳優たちが何に価値を見出し、葛藤し、伝えようとしたのか、彼らが今の時代に生きていなくとも、メッセージは生きつづけて後世の我々に問いかけてくれます。
たとえば、携帯やスマートフォンが新しくでてきたときに例えるなら、どちらかといえば、これまでにあったものに対して興味をひかれます。スマートフォンがなかった時代には、手紙が当たり前のようにあって、時間はかかるけど、思いを文字にして書いて、それを届ける人がいて、そうしてやっと相手に届く。効率は悪いかもしれないけれど、そこには人と人とのふれ合いや心があります。Eメールは、すぐに情報をおくれるけど、思いが薄れていく気がするんです」
では彼が平成に生まれながら、なぜ昭和な気持ちをもつ俳優として育ったのかを探っていこう。父はカメラマン、母はピアニストだった。幼児教育でほかの子供たちがピアノやバレエやサッカーをやっているときに、お芝居をやらせたら面白のではという思いで両親が4歳のときから始めさせたのだという。
「最初は、コマーシャルのエキストラをやっていた記憶がありますが、気がつけば、お芝居をやるようになっていました。舞台よりも映像がメインで、その頃、大きな作品だと黒澤監督の遺作シナリオを28年間助手を務めていた小泉監督がメガホンを取った『雨あがる』に6歳のときに子役で出演しました。
今思い返すと、経験がないくせに、演出の方とも役作りに関して一丁前に会話していた記憶があるんです。最初、自分の役にはセリフがなくただ動きだけつけられました。しかし、本番直前のリハーサルだったと思いますが、おそれ多くも勝手にしゃべりだしたりしたら『いいね』って言われて、当時の言葉に直された上で、そのままセリフになりました。
その後は、朝のNHK連続テレビ小説『私の青空』で主役の男の子の仲良し3人組の一人を演じました。現場や学校に行ったりきたりしながらも、お芝居をするのが純粋に楽しかったです。おそらく周りの子がサッカークラブにいってるのと同じ感覚だったのだと思います」
日大の芸術学部に進学したというが、何がきっかけでニューヨークへ来たのだろう?
「これまで学校には、映画や芝居の話をできる人がいなかったので、大学に行けば、それができると思い興味がわいて演劇学科を受験しました。同じ芸能事務所の先輩がいたこともあり、学校見学でお芝居を見たときに面白かったこともあって。ところがAO推薦(大学側が求める学生像によって合否を決める)を落ちてしまいました。その後、一般公募推薦で、なぜか演劇学科ではなくて映画学科に変えました。
ニューヨークにきたきっかけは、齋藤俊道監督が当時ニューヨーク大学院の卒業制作として手掛け、12カ国の映画祭でノミネート、多数の賞を受賞した映画『小春日和(A Warm Spell) 』に参加したことがきっかけです。岡山と大阪で撮影したんですが、監督からは始終、『ふだんの中根くんでいてください』と言われました。今ならその演出の意味が理解できますが、当時の自分はとにかく言われるがままにやっていました。
監督の現場や演出の仕方は、これまでの作品で一度も経験した事ないものでした。同じカットを最低でも5テイク、多いと10テイク以上繰り返し撮影するのですが、そのスタイルになれるまで初めは少し不安でした。これまで日本の現場ではとにかくNGをとらずにすすめていく事ばかり気にしていました。現場に迷惑をかけず、ミスのない上手だねと言われるような芝居ができば良しと。
監督が初日の顔合わせでキャスト全員に『すべての責任は監督の僕がとる。何があっても皆さんを守るので、俳優の皆さんは安心して何でもやってくれ』と言われました。その言葉にすごく救われました。
現場の進行の仕方や、必要なシーンには充分な時間をとって丁寧に進めていく方法、それを見ていてアメリカでは映画をこうやって作っているのかと感動しました」
日本では、どちらかといえば浮いている存在だった?
「ピアニストとしての母は、今は百人一首に自身で作曲した曲をのせて、歌人達の魂をピアノと歌声で伝えていく活動を、南米大使館を窓口に国内外に向けてやっています。表現する事を何よりも楽しむ母なのですが、自分が幼少の頃はそれが恥ずかしくもあり。
たとえば小学校3年生のある日、PTA主催の親子ドッジボール大会が校庭で行われました。母がラジオ体操の係だといって朝礼台に上がり、なんの前ぶれもなくThe Stylistics の Can’t Give You anything but My Love をラジオ体操第二のかわりにかけて、自分で振り付けした動きを楽しそうに踊るわけです。他のPTAや同級生たちは楽しそうに笑っているんですが、自分としてはありえないわけですよね。空気になりたいと思いました。
そんなわけで思春期のころは、人とちがうことを進んでやる母がとにかく恥ずかしくて。その上、自分が俳優としてオーディションや現場に出る際も、人にどう見られているのか常なほど気にして行動していました。浮くことが恐怖でした。
なので当時の自分にとって日本は居心地がよくなかったです。大学の後半くらいからようやく、浮くことに関しては『人にどう思われてもいいや』と、かなりマイペースでいられるようになりました。
さらに今、ニューヨークに来てわかった事は、ここの人たちは、みんなそれぞれ忙しいからか、人のことをいちいちかまっていられないんです。たとえばダンスのクラスにいけば、ブロードウェーのダンサーから、初心者までみんな同じクラスにいて、それぞれが自分のレベルで踊る。自分なんか振り付けをおぼえる事で精一杯です」
これからの自分は、どうありたいのだろうか。
「とにかく芝居している時間、芝居について、映画について考える時間を増やして行きたいです。そして、100年たっても映画館で上映されるような作品に出演する俳優になりたいと思います。」アメリカでも昭和っぽい味を活かした俳優として、様々な映画に登場するであろうことが楽しみだ。<敬称略 取材・執筆 ベイリー弘恵>
【プロフィール】
中根大樹(なかねたいじゅ)
東京都生まれ。東映アカデミーに4歳で入所。子役時代は朝ドラ「私の青空」や昼ドラ「新天までとどけ5」等にレギュラー出演。一度は芝居から離れるも、故・瀬川昌治監督に拾われ舞夢プロに入所。大河ドラマ「平清盛」や映画「小春日和」を始め、「高校生レストラン」「仮面ティーチャー」「弱くても勝てます」等にレギュラー出演。日本大学芸術学部を卒業後、アメリカで芝居を学ぶことに興味が湧き渡米。金欠と戦いながら今日も役者修行に精を出す。