命をかけてトムクルーズを救ったハリウッドアクション俳優、小山田真

映画「ラストサムライ」で命をかけてトムクルーズを救ったハリウッドアクション俳優、小山田真さん。
「ジャッキー・シン」というあだ名で呼ばれた少年時代、人の10倍努力できる心と体のつくり方、シン流英語上達法とは!

しゃけ:
ブログ読ませていただいております。ブログ「ハリウッドからの手紙」リンク先→http://www.shinkoyamada.jp/blog/
「小、中、高校時代の12年間、学校を一度も休んだことがない」とブログにありましたが、どんな少年時代をおくっていたのですか?

小山田真さん:
風邪をひいても学校は休ませてもらえませんでしたね。子供の頃は、やんちゃで冒険心が旺盛な少年だったと地元の知り合いから聞いています。動物や自然に触れるのが好きでした。近所のすごく大きい犬はとても苦手でしたが。
小学校時代は、学校から帰って来て家でテレビを見る事は基本的には許されていなくて、「日が暮れるまでは外で何かしてきなさい」と言われていた覚えがあります。友達が忙しくて見つからないときも、「自分一人で何かを見つけて外で遊んで来なさい」と言われて。夜は決まった時間に自分の机に向かい、決まった時間にベッドに行く。やりたくなくてもやらされていました。

小学1年か2年生の時に初めて祖父に自転車を買ってもらい、実家から50キロぐらい離れた県北にあるカーナビにも出てこないような山奥の祖父の家まで一人旅をしました。
朝5時位だったかな、リュックサック2つ分を一杯におやつ、水、小銭、懐中電灯等をつめて出発しました。地図は持っていなかったので頭の中の記憶をたどって山奥の細い旧道を一人で迷子のようにゆっくり旅をしました。
通り過ぎる車の中から見知らぬ人が「がんばれ!」と声をかけてくれることがたくさんあって、着いたのは日が暮れはじめたくらいの時間でした。

それを年に数回、中学校を卒業するまで続けました。成長するにつれ自転車も大きくなり道も改良されて楽になりましたが、気がつけば、当時の周りの同級生達とは全く違った大腿四頭筋の構造と筋力を持っていました。競輪選手の筋肉に似ているものだったかもしれません。

家で過ごすときは、ジャッキーチェンの映画を何度も繰り返し観ていました。ジャッキーに夢中になっていて真似していたら学校で「ジャッキー・シン」と呼ばれるようになりましたね。

しゃけ:
習い事はしていましたか?

小山田真さん:
小学校6年まで硬筆を習っていました。硬筆2段を持っています。硬筆をやっておいたおかげで、中学時代には習字のコンクールで数多くの賞をいただきました。習字も先生に続けるようにとても薦められたのですが終わらせることができませんでした。もっと習字を勉強しておけば・・と今は思っています。

もう一つの習い事は陸上です。小学4年の時に岡山市ジュニア陸上クラブOJAC(岡山県内の走りに自信のある小学生が集まる団体)のオーディションを受け、第一期生として入会しました。同じ小学校からもオーディションに受かった友達がいましたが、みんな初日でやめてしまい、取り残された感じがしました。
毎週土曜日に岡山県営グランドで練習があり、時々遠征にいっていました。もちろん走る事が好きで入会したのですが、友達ができるまでは行きたくない日もありました。雨が激しく降ると練習が中止になっていたので、時には「雨が降ってくれれば良いのになー」と思ったり。やっぱり小学生なので、友達がいてこそ練習する楽しみがあったような気がします。そのうち、唯一親しくなった友達ができ、当時から今でも連絡を取り合う仲になりました。

OJACとは別に小学校内にある陸上クラブでも練習をしていました。岡山県では年内を通していろいろな陸上の試合が行われていて、JACのチームで試合にもよく出場していました。その中でも、ナターリレーと呼ばれる試合は、代表的で、記憶が正しければ県内各地の小学校やOJACのような独立した陸上団体が参加するようなイベントでした。

小学校では僕が一番足が速く期待されていたので、代表としてナイターリレーにも参加する事になりました。
しかし、困ったことに、OJACのメンバーとしても、自分のチームを形成し試合に挑むことに。
小学校かOJACのどちらか側を選ばなければなりませんでした。どちらを選んでもどちらかを裏切る事になり、敵に回す事にもなってしまいます。その時はとても困りました。両方とも、これまで一緒に汗を流して数年間一緒に練習をして来た仲間達だからです。親にも相談した記憶があります。
結局、同じアスリートとしてお互いの実力をぶつけ合あおうということで全力で試合に挑む事にして、OJACを選びました。OJACの僕のチームはどんどん勝ち進んでいきました。

しゃけ:
武術を習い始めたのはいつですか?

小山田真さん:
高校一年生の時です。武道と俳優業だけは親に厳しく反対されていたので、武道を始める時期がかなり遅れてしまいました。
中学3年の時、同級生に空手の先生を紹介してもらい、「道着や月謝等の費用全て自分持ち」という親からの条件つきで許されました。

僕は中2~3年の時に「ハリウッドに行こう」と100%決意していたんです。
進学路を話し合う三者面談のときに、はっきり「俺はハリウッドに行く!」と言いましたが、叱られましたね。まず高校に行ってからだと。高校を卒業した後は自由にしていいと親に言われたので、ハリウッドに行くために高校進学を考えました。

高校は、アクションスターになる為に必要になりそうな器械体操部がある学校を近所で2つ見つけました。
一つは、器械体操部の名門校の私立高校、もうひとつは器械体操では全く知られてないが、有名な県立進学学校。
私立の方は、ギリギリ受かるだろうというレベルでしたが、器械体操部はレベルが高すぎて入部する事が許されないかもしれない。
県立は、当時の成績から考えれば完全に不可能と言われていました。

迷ったのですが、家から近く、器械体操部があり男女共学制、学費が遥かに安いという条件の良さで県立を目指すことにして猛特訓で勉強しました。
そしてその県立高校に運良く受かり、高校3年間は空手や器械体操の実力も上げ、ハリウッドに行く準備を着々と行いました。
英語は一番苦手で毎回赤点でしたけど。

しゃけ:
英語はいつ猛勉強したのですか?

小山田真さん:
英語はロサンゼルスに移住してから語学学校と短大で読み書きの基本を克服しました。
初渡米後の18歳位の時は、なんと表現すればいいのかな・・・子供が初めて夢にも見た遊園地に行く好奇心をもち、先が見えない広大な海の中を一人で小さな船で渡航する冒険心であふれていました。小学生の頃、自転車で初めて一人旅したときの気分と似ているかもしれません。

毎日が初体験な事ばかりで、一日一日が有意義で、一生懸命生きていた感じです。
基本的な生活は、朝起きたら短大で授業を受け、午後は空手を教えながら練習、ロサンゼルスに来てからはじめた中国武術の自己練習を数時間、アメリカ人の仲間たちと夕飯を食べ、23時まで中国武術のクラスを3時間。翌日は授業・・・の繰り返しです。

ですが、世の中思い通りには事が進みませんよね。星の数ほどたくさんのエピソードがその間にありました。
楽はしていません。

英語の学習として実践していた基本的なことは
○親と話す時以外は日本語をまったく話さない。
○同じレベルの留学生たちと話し、英語に慣れる。
○近所の子供たちと話す。
○頭の中で日本語に訳さず、英語のまま解釈する。
○テレビをリラックスした状態で聞き取る。
○ネイティブの友達とできるだけ話し、知っている単語だけでも会話になるよう心がける。
ということなどです。

しゃけ:
今は英語で困ることはありませんか?

小山田真さん:
アメリカでプロとして俳優業をして10年近くが経ちますが、今でも映画の台本より分厚い契約書のすべてを完璧には理解できない箇所もあります。アメリカでそれなりのビジネスを行うには、弁護士が準備した契約書や同意書が必ず必要です。
初めはそれを理解するのに苦労しました。

アメリカでの俳優業は自分が司令塔になり、弁護士、マネージャー、エージェント、プロモーターに指示していくことが基本です。
「ラストサムライ」はオーディションに合格して得た仕事ですが、ディズニーチャンネルの「Wendy Wu Homecoming Warrior」は、自分で企画したものです。
僕がアメリカ人プロダクションチームを連れて、ウォルトディズニーに売り込みに行ったのです。
プロデューサーをしながら、主演をするというのはとてもやりがいのある仕事です。

ただ、ディズニーチャンネルがアクション映画を作るのはそのときが初めての試みで、さらにアジア人が主役というのも初めてのことだったので責任が重大で、不安もありました。

しかし、結果は大成功。世界配給され、プロモーションのために様々な国に行くことになりました。
終わったときはずっしりと重かった肩の荷が軽くなっていくのを実感しました。精神的に、肉体的に今までに経験したことのない、貴重な体験でした。

しゃけ:
子供たちも「ジャッキーみたい!」と画面に釘付けでした。日本でもぜひ映画制作をしていただきたいです。

小山田真さん:
日本ではテレビの仕事をしたことがありますが、映画業界ももちろん視野に入れています。
今まで自分が辿ってきた道のりは前例がありませんので、この先も自己流で道を切り開いて行くつもりです。
日米を拠点に、お客さんに喜んでもらえる映画制作、出演の活動をしていきたいです。
希望や夢は過去の中にはありません。未来に「前進あるのみ」です。挫折したときにも、とりあえず前を見て進もうということだけを考えています。それから、よく「人一倍の努力」といいますが、僕は自分の中では10倍は努力しよう、できるだろう、といつも思っています。

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