やす鈴木マンハッタン映画祭で最優秀コメディー・ショートフィルムを受賞

脚本、監督、主演した二本目の短編映画、”Radius Squared Times Heart” がマンハッタン映画祭で最優秀コメディー・ショートフィルムを受賞した。
映画祭に選ばれて一日だけとはいえ、映画館で上映されるだけでも素晴らしい栄誉と経験なのに賞までいただいて、本当に夢のようである。
僕は観客と直に向かい合うライブの舞台も本当に大好きなのだが、映画は舞台と違って作ってしまうと一人歩きしてくれるのがうれしい。

しかし33分の短編とはいえ、制作費を自分で出して手弁当で作るのは本当に大変だった。経費節約の為に撮影日の前の日は、監督自らキャスト、スタッフの昼食をせっせと作ったので、本当に手弁当で作ったといえる。このプロダクションの昼食代がバカにならない、現場では大きな予算の一部になる。

プロのケータリングやレストランを貸し切る予算はもちろん無かったし、かといってピザやサンドイッチを毎日食べさせるのも味気なくて嫌だった。
料理が得意でまたひとつ助かった。芸は身を助けるである。

一本目の短編映画、”For Marlon” を作ったのは2004年の秋。自分で舞台の上で演じるコントの脚本が書きたまっていたところで、
この年の夏にマーロン・ブランドが亡くなったので映画 “ゴッド・ファーザー”のパロディーで書いたコントを亡くなったマーロン・ブランドを偲んで映画にしようと思い立った。
とはいえ、映画製作の経験もなければ金もない、カメラもないし、編集できるようなコンピューターさえも無かった。あるのはそれまでに培った人脈だけである。

この唯一持っていた人脈をフルに使って、友人、知人に頼みまくった。
カメラを貸してくれた上に撮影をしてくれたムーン、厚かましくもおうちに上がり込んで何時間にも渡る編集をお願いした先輩のよしさん、素晴らしい演技をしてくれた俳優達もノーギャラでこころよく引き受けてくれた。

映画を一本作った経験の最大のメリットはどうやって二本目を作ろうかと考えさせられたことだった。
この一本目の経験で、編集用のコンピューターだけは自分で買おうと決心して、それから数年はがんばって働いた。
そして、2007年、ジャマイカのホテルのテラスで目にも鮮やかなカリブの花をぼーっと眺めていた時に今まで霧のようにもやもやとしていたいくつかの
アイデアがスーッとひとつにまとまった。

「もう一本、撮ろう」 気持ちが固まった瞬間である。
気持ちが固まると脚本は二ヶ月ほどで仕上がった。それから実際の撮影に入るまでに丸一年かかった。
一番苦労したのは撮影をしてくれる撮影監督がなかなか決まらなかったことだ。

まずはロスアンジェルスに住む親友でカメラマンのマイケル・マクゲイリーにロスアンジェルスまで会いにいって頼んでみた。
彼は僕の素晴らしいポートレートの数々を撮ってくれて映像センスには絶対の信頼をおいている。
一旦は引き受けてくれたマイケルだったが、スケジュールがなかなか合わずにどうしても無理だった。

それから知り合いのつてをたどって数人のカメラマンにあたったが何度もドテキャンを喰らった。
しかし撮影直前にカメラマンが決まっていなくても不思議と落ち着いていた。絶対になんとかなると信じていた。

撮影初日予定日の一週間前にやっと、僕の友人の息子でプロの編集マンのキース・エンが脚本を読んで気に入ってくれてこころよく引き受けてくれた。
主役の三人の配役については苦労は無かった。ニューヨークでの二十年近くの舞台、映画で働いた経験の中で素晴らしい俳優達との出会いがあったからだ。
オフ・ブロードウェイの舞台“The Gold Standard” で共演したアリー・キャリーは、はじめから彼女をイメージして脚本を書いたし、
彼女自身もこころよくロマンティック・リード(主人公の恋の相手役)を引き受けてくれた。

素晴らしい俳優でありながら、プロの編集マンでもあるブライアン・西井はこの映画で素晴らしい演技をしてくれた上に、特殊効果の編集も彼が全て引き受けてくれた。
一番大変だった配役は、僕とブライアンの子供時代の子役だった。

最初は10歳から13歳ぐらいのアジア人の子供を二人探していたのだが、カメラの前でセリフをちゃんと言える子供はなかなかみつからず、
しかもアジア人となるとなおさら難しい。結局、少し役の年齢を上げて、ティーンエイジャーに見える撮影監督のキースにこの役をやってもらった。

結果には大満足している。みんな素晴らしい仕事をしてくれた。

音楽もラッキーだった。
ニューヨークでの生活で出会った何人もの素晴らしいインディー・ミュージシャン達にお願いした。
ヘルズキッチンに住んでいた頃のアパートの同じビルに住んでいたバイオリニストのエニオンとギタリストでリュートも華麗に弾きこなす旦那さんのデイビッドとで結成したアコースティックバンド “ThaMuseMeant” 、

名古屋時代からの友人でブルースシンガーのKey、これも名古屋時代からの友人で今はアリゾナに住んでいるフォークシンガーのケン小塩、
ニューヨークで伝説的な人気を持っていたシャンソン歌手のミシェリン、みんな本当にこころよく素晴らしい楽曲の数々をこの映画の為に提供してくれた。
ひとつだけ苦労をしたのは、最後のシーンで流れるフランス語の歌だ。シャンソン歌手のミシェリンはこころよく承諾してくれた。

ものの、

この曲がシャンソンの父といわれるジャック・ブレルのカバー曲であったため、使用許可を取るのに大変な思いをした。
歌手のミシェリンは、現在アムステルダムに住んでいるし、ジャック・ブレルの奥さんが運営しているベルギーのジャック・ブレル財団、
それにブリュッセルのレコード会社と何度も交渉を続け、
時にはフランス語でEメールのやり取りをして(もちろん僕はフランス語ができない)なんと8ヶ月もかかってしまった。

でも最高のオプションをあきらめずに模索しつづけて完成した作品を映画館の暗闇の中で観客と一緒に観たのは本当に感動的な経験だった。
全て、あのジャマイカのホテルのテラスで始まった自分の頭の中のアイデアが、現実となってスクリーンに映っている。
そして、おかしなシーンではみんながいっしょになって笑い転げている。

“Thought becomes things” 「思いはモノになる」
夢はかなう、とか抽象的な話をしているのではなくて、思いというのは強く持てば持つほど必ず現実のものとして現れる。
この映画を支えてくださった全ての皆様に心からありがとう。<やす鈴木>

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