「親は見守るしかないのよ」―17歳の息子と「生きること」を見つめた母・千子さん<第二回>
「もうね、うちの息子、ダメなのよ。」
ハンバーガーを囲み、千子さんと共通の友人ら4人でビールを飲みながら食事を始めた途端、なぜか私(筆者)の愚痴大会が始まった。
最近、ちょっと太ってお腹が出てきたことを気にしている私に、息子が放った一言。
「お母さん、妊婦?」
……。
「四人目なんて、この年でありえないでしょ!」
テーブルは大爆笑。
腹が立った私は、
「もうファイナンシャルサポートも何もしない!」
と高らかに宣言。
ところが翌日、息子がチキンを作って謝ってきた。
「で、結局許しちゃうんですよ。」
そう言うと、千子さんがニヤッ。
「甘いねぇ。」
「……はい。その通りです(笑)」
すると千子さん、
「母親って、結局そうなのよ。」
たった一言で片づけられ、また全員で笑った。
そして、もう一つ。
「大学卒業ももうすぐだから、せめて卒業式くらい出てほしいんだけど、息子は『行かない』って言うんですよ」
そうこぼす私に、千子さんはあっさり。
「本人の人生だから。親は見守るしかないのよ」
私は思わず苦笑いした。
本当に、その通りだからだ。
この日のランチは、私が悩みを話しては、千子さんが人生経験で返してくれる。
まるで人生相談。
ただし、深刻さはゼロ。
笑って、ツッコんで、「そうそう!」とうなずいて。
気づけば、ハンバーガーより会話のほうが、ずっとごちそうになっていた。
けれど、千子さんの「親は見守るしかない」という言葉には、妙な説得力があった。
それは単なる人生論ではなかった。
千子さん自身がかつて、息子の命と向き合い、母親として「見守ること」しかできない時を経験していたからだ。
「なぜ僕が……」17歳の次男を襲った病気
千子さんの次男が高校生だった頃。
彼は高校のアメリカンフットボール部で活躍する、元気な少年だった。
千子さんは当時、週に一度、息子たちの体をマッサージしていた。
いつものように次男の足をマッサージしていると、太ももに何か違和感がある。
「なんだろう?」
気になって医師のもとへ連れて行った。
皮膚科を紹介されたものの、担当医はバケーション中。そこで足を専門とするクリニックへ行き、深く考えることもなく検査を受けた。
ところが一週間後。
医師から呼び出された。
次男も一緒だった。
告げられたのは、想像もしていなかった言葉だった。
悪性肉腫。
まだステージ1には達していない。しかし、すぐに手術が必要だという。
若い人の肉腫は進行も転移も早い。
「すぐに病院を紹介するから、できるだけ早く行きなさい」
昨日までアメフトをしていた17歳の少年の日常が、一瞬で変わった。
母親としてできたことは、「話を聞くこと」
そこから千子さんが意識したのは、病気そのものだけではなかった。
「ショックを受けた息子の精神を支えることに意識を集中しました。とにかく、話を聞きました」
手術では肉腫を切除。
太ももの後ろ側、縦横およそ15センチの範囲を、約2センチの深さまで切除する大きな手術となった。
当然、激しい痛みがある。
さらに医師からは、転移していれば足を切断する可能性があること、肺への転移があれば命に関わることも本人に伝えられていた。
17歳。
高校生。
昨日までスポーツをしていた少年が、突然、自分の足や命について考えなければならなくなった。
心も体もボロボロだった。
「何で、僕が……」
その先の言葉が出てこない。
そこで千子さんは、息子にこう言った。
「よし。じゃあ、なぜあなたがこの経験をさせられているのか、考えてみよう。今日眠れないなら、それを考えてごらん。何か一つでも気づいたことがあったら、お母さんに教えてね」そう言って、その日は帰宅した。
答えを教えなかった。
無理に励ましもしなかった。
そして翌日。
息子が自分から話し始めるまで、千子さんは待った。
「お母さん、ちょっと分かったかもしれない」
昼過ぎ。
次男が口を開いた。
「お母さん、ちょっと分かったかもしれない」
そして、ゆっくり話し始めた。
「僕は今まで、生きていることを当たり前だと思って、感謝してこなかったかもしれない。
両親がいること。
屋根のあるところに住めること。
毎日食べられること。
学校へ行けること。
そして――健康であることも。」
その言葉を聞いた瞬間、千子さんの心が温かくなった。
「あっ、この子、大丈夫だわ」
そう確信したという。
「このことに気づけたなら、もう怖いものはない」
病気が治ったわけではない。
治療はこれからだ。
それでも母親には、息子が一つ大きな山を越えたように感じられた。
一本の送迎電話から知った、アメリカの優しさ
その約一カ月後、次男は大学へ進学した。
しかし治療は続いていた。
大学近くの病院で、約一カ月にわたる放射線治療。
しかも週5日。
毎日、大学から病院へ通わなければならない。
そこで千子さんは、タクシー会社へ相談に行った。
大学と病院の間を送迎してもらえないか。
すると、一人の女性ドライバーが担当することになった。
事情を聞いた彼女は、思いがけないことを言った。
「それなら、私にボランティアをさせてほしい」
千子さんは驚いた。
女性は続けた。
「私は今は元気。でも、この先どうなるかは分からないでしょう? いつか私も、あなたのように誰かの助けを必要とするかもしれない。だから、そのときの自分のために、今、あなたを助けさせてほしいの。遠慮しないでね」
千子さんと息子は、
「ありがとうございます」
とお礼を言って外へ出た。
アメリカの素晴らしさに出会った瞬間だった。そして――二人で泣いた。
悲しくて流した涙ではなかった。
とても温かい涙だった。
二人で泣いて、それから笑った。
「このご恩は忘れないでおこうね」
病気にならなければ、出会わなかった人だった。
経験しなかった優しさだった。
千子さんは振り返る。
「私と次男は、彼の病気のおかげで、たくさんの素晴らしい経験をさせてもらったんです」
病気が変えた、千子さんの「暮らし」
この経験をきっかけに、千子さん自身、そして家族にむけての生活も変わった。
食生活を見直した。
生活習慣を見直した。
そして、「衣・食・住」という毎日の暮らしそのものに、以前より意識を向けるようになった。
当たり前に食べること。
当たり前に眠ること。
当たり前に家族がいること。
失いかけて初めて、その「当たり前」が、実は当たり前ではなかったことに気づく。
17歳だった次男は、その後、転移することもなかった。
そして現在、35歳。
元気に暮らしている。
ランチの席で、
「本人の人生だから。親は見守るしかないのよ」
と豪快に笑っていた千子さん。
その言葉だけを聞けば、ただ明るくて豪快なお母さんに見える。
でも、その笑顔の向こうには、17歳の息子と一緒に「生きること」を見つめた時があった。
子供の人生を親が代わって生きることはできない。
どんなに心配でも、どんなに手を差し伸べたくても、最後に歩いていくのは本人なのだ。
千子さんのあの豪快な笑顔は、もしかしたら、そんな時をくぐり抜けてきたからこその笑顔なのかもしれない。
ランチを終えてからも、「親は見守るしかない」その言葉だけ、何度も自分に言い聞かせるみたいに、心のどこかに残っていた。
<取材・文 ベイリー弘恵>

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