ラルフローレンのファッションショーでメイクアップ・アーティストのサポート~HINAKO

ニューヨークで英会話の学校へ通いながら、ファッション雑誌の表紙を飾るメイクやラルフローレンがLAでファッションショーを開催したときにもメイクアップアーティストの助手としてサポートをした。

HINAKOの描くメイクは、美しさを引き立てることももちろんあるが、基本はアート。メイクにも普通では使わない色でデザインが施されていたり、カラフルな模様がモデルの顔面を覆っていたりする。モデルの顔が彼女にとってのキャンバスなのだ。「ラルフローレンのファッションウィークのトップアシスタントの助手としてお手伝いできたのは、奇跡でした。まず、こうした大きなチームだと、一人メインのメイクさんがボスとして存在していて、その下にアシスタントが3人、あとはその下にまたアシスタントがいて、20人くらいでショーのメイクアップを担当しています。 」

メイクを学んだのは地元大阪。17歳からクリエイティブ・ファッションという専門学校へ通った。
物心がついた時から美容業界で働こうと思っていて、”自分=アーティスト”以外の考えがなかったのですが、海外でしかメイクはしないって学生時代から決めていたんです。」

消防士の父親は、大阪中央区の所長をやっていたこともある厳格な人物なので、家でも厳しいのかと思えば、仕事で常に気をはっていなければならないからだろう、家ではゴロゴロしていたのだという。

「父は、311のレスキューにも行きましたが、すでに長いキャリアのある消防士で、私が一つのことを長く続けることができるところは、父親譲りなのかもしれません。

親の仕事がいつも大変だとわかっていたので、小学2年生くらいから、自分は楽しめることを仕事にしようと心に決めていました。まずは美容師になろうって思ってたのですが、小学6年生のころにはネイリストになるため100均でネイルグッズを買って練習していました。」

美容の世界へ入ろうと頑張っている幼い姿が目に浮かぶようだが、中学では別の方向へ・・・。

「中学に入ってから、ごくせん(森本梢子の漫画)に憧れすぎて、ぐれました(笑)タバコも吸えないのに、買ってみたり。うちは昭和を絵に描いたような男家系だったので、兄も、かっとなると暴力がでるタイプだったこともあって。そのせいで根性だけは培われたのか、今となっては同世代の子が悩んでいるような、ちょっとしたことでは驚かないです。

自分のメンタルをコントロールするため、本気でボクシングをやっています。負のエネルギーをスポーツで発散するんです。格闘技って、とても良いメディテーションになります。仕事のストレスも、格闘技のおかげでコントロールできるようになりました」

  一時はグレていたのに、どうやってニューヨーク行きを決意したのだろうか?

「メイクの専門学校を卒業後、東京でメイクアップのアシスタント募集を見つけ、英語がしゃべることが条件だったのでフィリピンで英語を学ぼうと考えていたのですが、偶然、NYから帰ってきたメイクアップアーティストのMotegi Tomoyahttps://tomoyamotegi.com/home/)さんと話すことがあったんです。

彼から、ニューヨークにいくべきだって助言をうけました。ニューヨークへは、ずっと行きたかったのですが、お金のためにあきらめていたんです」

アドバイスを受けた19歳から1年間、月に一度休みがあるかないかの状態で、雀荘でバイトをしたり、ラウンジやダーツバーと、疲れで蕁麻疹がでるほど働いた。

 「ニューヨークに来て3か月くらいに、日本へ戻って仕事しようかと思ったこともあったのですが、『ニューヨークへ来て1年や2年で日本へ帰るのは、負けを認めたようなものだ』ってある人に言われたので、もうしばらくアーティストとしてこちらで頑張ってみようって留まりました。

幼少期に容姿にコンプレックスがあったこともあり、メイクという仕事に興味をもったのだという。
「子供のころは工作とか、なにかを作るのが好きだったこともあって、ビューティーの世界に入っても、ボンド、ラテックスとか出てくるので、工作に近いものがあるんです。」
HINAKOらしいメイクとは?

 「ニューヨークだけじゃなく、世界で活躍できるアーティストになりたいという目標に向かってがんばっています。クリエイティブメイクをやるときには、モデルの顔を見てからメイク案をつくります。

事前にどういうメイクになりますか?ってモデルさんから聞かれることがあるのですが、スタイリストさんやフォトグラファーとカラーだけは決めていますが、

『メイク道具をみて、あなたの前に立たないとわからない。』って答えます。

モデルさんを目の前にしたときのインスピレーションや、メイクをやりながらアイディアが、どんどんでてくるんです。なので、事前にこういうメイクをしようと思っていてもまったく違うものになることもあります。」

  ニューヨークでいろいろな人種のメイクをトレーニングとして続けているおかげか、色が見えるようになってきたのだという。

「インド人の肌は、ベースカラーがグリーンの色味のあるブラウン。今では、まつ毛の方向一本一本も見えてくるレベルになりました。テカりのある黒人のモデルさんも、3~4色乗っているのがわかります。

やればやるほど肌にのってるベースカラーが見えるようになってきました。1シェード、2シェードって見えるようになって。スキンテクスチャーとか、ボディークリームをぬっているという細かな肌の違いまでわかるようになりました。

17歳からただひたすらにメイクアップと共に生きてきたので、私からメイクアップをとったら何も残りません。10代の頃から何度も何度も人生が追い込まれるシチュエーションに立たされましたがやはり救ってくれたのはアートでした。

自分の存在を最も感じられる瞬間は、クリエイティブに没頭してその完成したルックを見る時です。私が私で居れる瞬間です。なので私がアーティストを辞める時は、死ぬ時です。

これからも、さまざまな人種のキャンバスへアートメイクを施すことで、HINAKOの世界が広がっていくのが楽しみだ。

【関連リンク】 
Hinako Instagram

 

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