オフィスワークをはじめて、何が大変だったのかっていうのは、思った以上に英語が聞きとれないことだ。銀行に電話して、本日の振込額を聞くけど、一回では聞き取れないため、何度も何度も聞き返し確認する。「もっと、ゆっくり数字を言って」とこちらからお願いするのだが、忙しいからか電話のむこうで舌打ちされることもあった。今となってわかったことは、銀行との連絡とはいえ、相手だってラテン系だったり、アメリカも地方からきている人なのでアクセントがあったり、イギリスの銀行だったりするとブリティッシュ・イングリッシュだから聞きとりづらいってこと。ねばり強く聞き返して、自分の仕事をまっとうすることが大切である。

今でも、インドのアクセントがある英語は聞きとれないのだけど。日本人でインド人と結婚している人にいわせれば「彼らはインドの英語のアクセントにプライドを持っているので、アメリカのアクセントに変えるつもりは毛頭ない」ということ。わかりやすく表現すれば、関西人が東京へいっても、関西弁を変えようとしないのと同じノリ。
日本人の社長からは、気に入られていたようで、いつの間にか秘書のようにして働いていた。「書類をだしてくれ」と言われれば、サクサクと書類を持っていく。「なんて素早く書類を持ってくることができるのだ!」と社長に驚かれたのだが、ファイリングのテクニックというものが、自分にあったことは私自身も驚きだった。一緒に仕事をしている日本女性で仕事のできる人は、ハンパない勢いで英語をまくしたて取引を成立させる。コンピューターに関する商品の先物取引のディーラーみたいな仕事。彼女らの英語のレベルといったらもはやアメリカ人。「アメリカ人よりもボキャブラリーがあるのでは?」と社長が言っていたほど。たしかに日本でも、当時から日本のTVに出ていたデーブ・スペクターは一般の日本人よりも日本語を知っていたって思うから、逆パターンがNYであってもおかしくはない。
社長に言われて、社長の仕事ぶりを観察させていただいたことは、今の自分の自信につながっているのかもしれないが、彼のあふれんばかりのパワーはスゴかった。アメリカでIT部門の第一線を牛耳っている企業のトップに、連絡先を探しだして、電話連絡を入れ直接交渉をしていた。
私は日本でプログラマーの仕事をしていたとはいえ、数年以上コンピューターの仕事からはなれていたため、IBMしか使ったことがなかったからか、マイクロソフトのOfficeでワードの使い方もままならなかった。私の先輩みたいな存在となっていた日本女性は、ちょっとだけほかの女性らとちがって英語がペラペラできる感じではなかったのだけど。彼女にワードのやり方を聞いていると、「こんなこともできないの?」と言ってきた。私は、アメリカのオフィスで働くことも初めてだったので、そんなキツイ言葉に面食らい、言葉を返せないでいたのだが。私達のやりとりを見ていた社長は、「コンピューターの使い方なんかで君が彼女を馬鹿するのはおかしいよ。彼女はプログラマーをやっていたのだから、君よりもコンピューターには詳しいんだ」と反撃してくれた。たしかに、基本さえわかればそれ以上は人に聞かなくてもやれるレベルではあった。ただ当時はインターネットもたいして発達してなかったので、本を開いて調べるしかなかった。
会社で働くためにH1-Bビザをとったが、アメリカでは、ソーシャル・セキュリティー番号というものが必要となる(ソーシャル・セキュリティー番号とは:社会保険番号をもらって税金を払わないと給料はもらえない)。そのソーシャル・セキュリティー番号をとるためのオフィスに足を運んだ。数週間がすぎ、いつまでたっても番号がこないのでオフィスへ連絡をとったら、ソーシャル・セキュリティーのオフィス側が私の書類をなくしてしまったという。まったくアメリカってところは、どこまでも無責任なやつらばかり。というのも、ガスの修理などでも予定の時間に来ることは、100パーセントあり得ない。別の日ではなくて、予定の日に来ればラッキーなレベルである。
「もう一度、オフィスへ来て登録してください」と言われ、仕方なく半休をもらってオフィスまで行った。ようやくソーシャル・セキュリティーも届き、給料もいただいた。しかし、この会社はどうやら傾きかけているらしい。面接のときにそれを話してくれたらしいのだが、私はその英語が聞き取れてなかったようだ。各会社へ未払金の請求をする仕事をやることになった。片っ端から会社に連絡を入れて、支払いの催促をする。しかし、相手もこちらが危険だとしっているのか、なかなか払おうとしないのだ。
自宅では、自分自身もITの知識をどんどんつけていこうと、社長が持ち帰っていいと貸してくれた「コンピューターの組み立て方」の本を自宅へ持ち帰り、毎晩のように読みふけっていた。コンピューターのソフトよりもハードのほうに興味をもつようになっていた。昼も夜もわからないくらいに緊張していたせいか、睡眠時間は少なくなっていった。それでも、大好きなNYで暮らしていることが楽しいからか疲れることがない。
働き始めて3ヶ月がたったころに、いよいよ会社は倒産に追い込まれてしまった。会社の差し押さえというのは容赦ない。冷酷かつ円滑に進められる。テレビドラマの刑事が犯人の目の前に捜査令状を差し出して、ダダーッと流れ込むように4、5人の人が踏み込んできた。 税務署の人たちだった。白い紙をかざして 「この会社は倒産した」と告げた。
険しい面持ちの彼等は社員数名の名を呼び、それ以外の人は荷物をまとめて退出するよう、きっぱりと言った。長年勤めてきた日本人の女の子達は泣き崩れた。社長の一言を最後に私たちは会社とは無縁の存在となった。社長はさすが日本人、 「君たちのおかげで、素晴らしい会社を持つことができたことがありがたい」と最後の言葉を丁重に述べて深く頭を下げた。
再び就職活動が始まる。ここで日本へ帰ってしまうのは人生を捨てることと同じくらいの挫折感を味わう気がした。面接にいくペースは前にもまして1日3社という日もあった。それでもなかなか仕事は見つからない。前の会社のビザは倒産と同時に切れてしまっている。アメリカを出て行かなければいけないという焦りと、出て行けないという強い意思が闘ってくじけそうにもなった。
このお話のつづきは、また次回にて