NYで就活中の身なのに、レストランからは2回も解雇されてしまって???

ニューヨークと日本を行き来して1年がたったとはいえ、日系のレストランで働いていたため、たいして英語は上達していない。オフィスワークを目指して就職活動を始めたもののかなり状況は困難だった。英語も満足にしゃべれない、就労ビザもない人間を雇う会社なんてあるはずがない。まず日系の新聞に掲載されている日系ジョブエージェンシーにはすべてに履歴書を送り、登録しに行った。必要があれば、それぞれのオフィスへと面接のため足を運ぶ。その後は、彼らが紹介してくれるという会社すべてに履歴書を送ってもらった。

面接してくれるという企業は、全社をまわる。日によっては2社まわることもあったので、スニーカーをはいて地下鉄で面接先まで行き、ビルの入口で黒いパンプスに履き替える。業種を選ぶなんて余裕はなかった。タクシー会社、家具の会社、銀行など、どんな仕事の内容でも面接してくれるとこがあればすべて行く。

今も鮮明に記憶しているのは、ミッドタウン5番街にある女社長のオフィス。私のようにニューヨークで成功している人には、ひれ伏しなさいといわんばかりの上からな態度の人だった。秘書に命令口調でしか仕事を頼めないところからして嫌いだ。私の面接のときにも「ニューヨークで働くってことは、甘くないわよ」的な言葉を投げてきた。この人の下では絶対に働きたくないって思っていたけど、先方もそう思っていたのだろう、面接はすぐに終わった。

就職活動しながらも、レストランのフロントの仕事は続けていた。しかし、どこからか私の就職活動の話が経営者の耳に入ったらしい。ある日、オーナーである女将の娘から呼び出された。「あなたマネージャー候補としてうちのレストランに来たのよね?」「はい、そうです」「聞いた話なのだけど、就職活動をしてるんですって?」「ええ、まあ」「だったら、もう明日から来なくていいです」突然の解雇だった。

アメリカは、解雇が当たり前の社会だったと思い知らされた。当時は、レストランで板前や接客のプロとして真面目に働き、レストランからスポンサーとしてサインしてもらって、グリーンカード(アメリカ永住権)を得ている人もいた。とはいえ、5年以上待っている人なんてザラにいた。私が果たしてこのレストランで接客のプロとして5年いることができたのかは、今となっては不明であるが。基本的に人見知りな性格であり、接客業には向いていないことが、実際に働いてみてわかった。

就職活動をしながら、日々の生活のために働くための仕事も探すことになった。しばらくして、フィリピン人女性が経営する日系レストランでウエイトレスとしての仕事が見つかった。ジャズで有名なビレッジ・バンガードというバーの近くにオープンしたばかり。面接で、私のことを日本人の男性マネージャーが気に入ってくれたのだ。マネージャーからは「お茶でもしない?」と、時間外に誘われたりしたが、時間外は就職活動でいつも忙しかったので断りつづけた。

アーティストが多く暮らすエリアだったので、映画監督をやっているという客が来たり、脚本を書いているとか、ミュージシャン、画家として活躍しているなどと、クリエイティブな人たちがウジャウジャとやってくる。彼らと少し会話するだけでも、アーティスティックなニューヨークの風にあたっている気がして楽しかった。

数か月がたちハロウィーンのパレードがあった日、サーブする者がマネージャーと私たった二人しかいないのに、大混雑となりパニックに陥った。ふだんは閉鎖している2階席までもが、人でうまった。「まだ食事はこないのか?」と訴える客たちに、あたふたするが、夜中をまわっても客足は一向に減ることがない。

過去ダウンタウンにあったFUBUの広告

レジでお金をもらっても、レジスターしている暇がないくらい。お金をトレイにのせたままキャッシャーに放置していたのは、マネージャーだったのだけど、「お金は絶対に放置しないように」と彼のほうから注意された。「こんなにパニックになるまで客を入れたあなたのせいでしょ」と、私は忙しさのあまりついにキレてしまった。「明日から来なくていいです」と、ここでも解雇を言い渡される。またしても職にあぶれ、プータロー生活をおくることとなる。

苦労話ばかりが続いているのだが、そんな中でも楽しみはあった。前にフロントをやっていたレストランで知り合った女友達とはクラブ巡りをして、ダウンタウンのクラブで朝まで踊ったり、バーに来ていたお客さんが連れて行ってくれるお洒落なバーで、週末は昼間から酒を飲む。不動産関係のお仕事をしている彼に、たかってばかりではあったが。作家オー・ヘンリーが通っていたというバー Pete’s Tavernにも連れて行ってもらった。

レストランで働いていたバーテンダーのジェントルマン二人とも、相変わらず親しくさせてもらっていた。フロントをやりながらカクテルの学校へ数週間ほど通って勉強していたこともあり、彼らの弟子として時折バーを手伝っていたためか、師弟関係は続いていた。バーカウンターへ遊びにいくと、ほとんどご馳走になっていた。

家の近所で10ドルをストリートで拾ったときには、とび上がって喜んだ。むろん食事代よりもビール代として消えてしまったが。職探し中で暇なのでアパートの外に立っていると、昼間からラリってるようすの近所の男の子と世間話がはじまったりする。「めっちゃいいブツが手に入ったから」と、説明をうけたりするが、あまり深入りしないようにしておいた。一度などは家の半地下におりるための階段で、見知らぬ男の子がモゾモゾやっているので、「何やってるの?」と通りをあけてもらうために声をかけた。「マシュルームだけど。君もやる?」と誘われた。マシュルームがドラッグだと知らなかったので、なんでこんなところでシイタケだかマイタケだかわからんものを食べとるんやろ?と、素にもどり不思議に思っていた。

90年代末はまだ警察の目が行き届かず、どんなブツでも手に入る時代だったからか、若者のあふれるダウンタウンでは自分がしっかりしていないと、堕落していくことのできる世界がポッカリ大きな口をあけて待っていた。

ある時は、アパートの管理人だったプエルトリカンのお兄ちゃんに誘われ、彼らの友達と一緒に部屋でハイネケンを飲む。酔っていい気分になったところで、イーストリバーまで歩いていってラテン音楽をガンガンにかけ踊った。管理人は筋肉ムキムキのゴッツイ兄ちゃんで、太い腕には刺青があった。彼がガールフレンドのためにつくったというバラの花にちなんだポエムを詠んでくれたんだけど、見かけと正反対な繊細でロマンティックなポエムの素晴らしさはハンパなく、涙するほど感動した。

人間って生きるためには何でもできるし、苦労だって考え方ひとつで楽しみに変えることができる。自分がやりたいって思う、私の場合「NYに住みたい」という目的のためならば、何だってできるのだと、この時に実感したのだった。

そんな暮らしの中、いよいよ初のオフィスワークとなる就職先を見つけた。ニュージャージー州にある半導体を輸出入する日系の会社だ。日本へいったん戻ってワーキングビザ(H1-B)を手に入れて働き始める。社長に気に入られ、秘書のようにして働いていた。ところが会社は傾きかけていたらしく、入社3ヶ月目に不運にも倒産するのだった。

このお話のつづきは、また次回にて

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