ニューヨークの日系レストランで仕事をはじめてからの私といえば

2週間後に就職を決めマネージャー候補のレストラン受付として働きだした。ニューヨーク在住の日系のレストランで働いていた当時の日本人っていうのは、まるで日本にいるのと同じノリ。基本、日本人同士は日本語でしか会話しない。しかし、ここで働く日本人ウエイトレスにラテン系やブラックの彼がいたり、同レストランで働くインド人のハンサムな20代後半のウエイターと、モデルみたいなダンサーあがりの30代の日本人ウエイトレスがつきあっていた。働く場所は日系だけど、プライベートはやはり外国なのである。

レストラン内では誰もが知っていたのだけど、インド人のハンサムは遊び人として知られていたので、「彼女もきっと遊ばれてるのでは?」っていつも噂になっていた。それ以上に話題の展開もないまま、インド人のハンサムほうが辞めてしまったので、どんな恋愛が続いたのかはわからない。

切れ長な目で日本的美人な売れっ子お座敷のウエイトレスは、現金で当時、役職つきのサラリーマンレベルで給与をもらっていたらしい。そんな華々しい世界があることもツユも知らず、私は地道に時給で、チップもなしにレストランの入り口にたつ門番、そして予約をとる電話番として働いていた。客がくれば、まるで開かずのとびらのような重たいガラスのドアを開け、客を迎える。時折「こんな若い女性に、ドアを開けさせるなんて、あり得ない」と、ドアをあけてくれるアメリカ人の紳士もいたりする。

靴を靴箱に入れてみたり、預かったコートを客に着せるというサービスもしていたのだが、たまにセクハラ的なやつもいて、オッパイをヒジでクネクネされるというときもあった。今思えば、クネクネされるだけでも、若かりし幸せな時代だったのか。

一緒に働いていた女性は細面の美人で、スリムな黒いスーツをいつも着ていた。日本で学生時代にハウスマヌカンのバイトをしたことがあったけど、そこにいたコリアン系のやはり細面の美人な店長に似ていた。赤い口紅をつけてるのだけど、唇だけが浮かばないくらいに目もぱっちりしているので、それもサマになっている感じ。美人だからか性格は不思議ちゃんなところがあり、周囲からは「彼氏がいるって言ってるけど、本当にいるのかしら」と、ささやかれていた。

私がローヒールのパンプスをはいて仕事しているのを彼女がみて、「その靴では立ち仕事って大変だから、私がはいてない靴をあげるわよ」と、ヒールのない紐靴をくれた。ところがちょっと靴の先が細かったからか、足が痛くて歩けない。女将が、「大丈夫?」と声をかけてくれたが、大丈夫ではなかった。その日は、靴擦れで足がヒリヒリだった。

ここへきて女将が登場したのだが、女将は小柄ではあるがいつも凛とした年齢不詳の女性だった。60代か70代だったのだろうか?毎日、夕方になると着物を完璧に着こなしてやってくる。帯締めから草履までいつも完璧にコーディネートされていた。時折オペラ鑑賞にいったりするという、これぞリッチなニューヨーカーライフをおくっていたようだ。

毎日、従業員たちがちゃんと働いているか、目を光らせていた。裏のラテン系のオヤジたちは、スケベなやつが一人だけいて、「僕と一緒にモーニングを食べないか?」と通り際にささやくことがあった。後から聞けば、女の子たち全員に声をかけていたらしい。

板さんは、頑固な日本人気質な人が多いから、忙しいときには若い板前さんやウエイトレスを怒鳴ったりもする。それでもフロントの私たちには優しくて、時折イカの塩辛を分けてくれた。

ウエイトレスの子たちは、客が食べなかったものや余った美味しい料理を食べることもあったようだが。フロントの私たちは、まかないだけがご馳走だ。

ロブスターの殻や鮭のアラが入ってる、残り物オンパレードの鍋風スープがよく出てきた。だしもタップリでていて、味付けもしっかりしているので美味しかった。フロント女子は「いっただきまぁ~す!」と笑顔で手を合わせ、大喜びで食べていた。が、ウエイトレスの子たちの間では「また残飯整理のごった煮かよ」と、食べない人だらけだったそうな。

バーテンダーの日本人ジェントルマンは二人が交代で入っていたのだけど、二人ともアメリカ人にも大人気で常連客がたくさんいた。政府の機関や金融業界の第一線で働いているアメリカ人も多く、誰にも文句を言われない立場なのだろう、ランチタイムからマティーニをグビグビ喉をならしながら飲む。アフターワークのハッピーアワーにもイスは数えるほどしか置いてないのに、ドヤドヤと人が集まってくる。ここのバーはとにかくいつも賑わっていた。

サンクスギビングがくると、ビジネス街なので店にくる客がへる。あるサンクスギビングの日、私のルームメイトは日系TVの制作会社でこのころ報道の仕事をしていためニューヨークを離れていた。彼(現在の夫)とは家族へ紹介するほどの深いつきあいではなかったため、自宅へ招いてくれることもなく、レストランでの友人らもほかで誘われているのか、昼間でも真っ暗な半地下のワンルームに一人きりになったことがある。お金もまったくなかったため、おかずさえ買えず、レストランから持ち帰ったご飯を粥にして一人すすった。そんな貧しい時期もニューヨークにいるっていうだけで乗り越えることができたし、楽しかった。

日本とニューヨークを不法滞在にならないよう行き来しながら1年ほどたったころ、新しくフロントに日本で英語の教師をやっていた女性が入ってきた。彼女はオフィスで働くために就職活動をしていた。「あなたも日本でITのキャリアがあるのなら探せばいいじゃない?」と軽く言われ、そうすることにしたのだった。とはいえ、就労ビザもなくて英語もたいしてできない私にとって、甘い世界ではなかったのだが。。。

就職活動のお話は次回に続く~

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