「謙虚に、生意気に生きる宝飾職人」
西洋には「❤」や「XOXO」など、愛を表現する“形”がある。日本人として何かの形で愛を表現しようと、生まれた作品が松葉のジュエリーだ。
「こぼれ松葉は、『あやかりものよ、枯れて落ちても夫婦連れ』という都々逸(どどいつ) から、男女愛を表現しています」
さらに、尊敬する千利休の茶の湯の世界も作品で表現。本物の竹でできているような節があり、繊細なカーブを描く茶杓(ちゃしゃく )を、純銀のかたまりをたたいて伸ばした作品だ。
「日本のわびさびや江戸の粋を作品を通して表現していきたいのです」
ここへ来るまで、ティファニーやヴァンクリーフといったジュエリー業界の第一線で活躍していたにもかかわらず、それがすごいとは思ってない。宝飾技術にさらなる磨きをかけ、「謙虚に生意気に」生きてきたという。
1969年の秋にニューヨークに来た。アップステートのスキー場でインストラクターなどのアルバイトをしながら暮らしていた。あるとき、スキー板に塗るワックスをナイフで削っていたら、ジュエリーにもワックスで原型を作り鋳造するという技法があることを知る。独学で宝飾を学ぶうちにどんどん面白くなり、自分の作品を売り出すまでになった。
インストラクター仲間にティファニーのマネジャーがいた。作品を見せたところ、ティファニーで働くチャンスを得る。その後、オープンハートやティアー・ドロップのデザインを手掛けるエルサ・ペレッティーの、ジュエリー原型を作るようになった。
ジュエリー界のトップ・デザイナーと共に働く一方、デザイン学校を出ていないことへのコンプレックスが頭をもたげてきた。しかし、パーティーでデザイン雑誌社の人と話をしていたら、「日本で育ったのだから、それが一番の学校だよ」と言われ、目が覚めた。
明治生まれの母は、父亡き後に女手一つで4人の子供を育てながらも、下駄箱の上に四季折々の花や盆栽を飾り、掛け軸を掛けかえたりして、日本の美を楽しんだ。そんな母の影響により、いつしか日本の美学が身に染み込んでいた。
ジュエリーデザイナーとして独立したのが、35歳のときだ。独立願望はあっても、どんな作品を作っていくべきか分からなかったとき、いつものように大好きなジャズを聴きに行った。そのときの演奏に鳥肌がたった。「ジャズミュージシャンのように、鳥肌がたつくらい素敵な感動を人に与えられる作品を作りたい」と強烈に思ったのが、独立願望を後押しした。
「人生を全体的に考えると、光っているときと、落ち込んだときは五分五分なのだから、小さなことを気にしていても仕方ない」
独立後にそう思うようになった。それぞれが微妙に異なる光を反射する銀色のプレート「IT IS OK」に、その意味を込めて制作し、ギャラリーのショーウィンドーに飾った。シンプルな規則性の中に、わびさびがある。あるとき、「作品を見て鳥肌がたった」と、店内に駆け込んできた人が言った。自分にも素敵な感動を人に与えることができるのだと確信した瞬間だった。
日本の美を含む東洋の哲学は、世界に貢献できる「新しいイズム」 として確立されつつあるという。そうした動きの中、新倉は作品に独自のエネルギーを注ぎこんでいる。
「宇宙からのメッセージを受け、その直感やひらめきを、職人の手によってエネルギーを注いだ作品を、わたしは ”宝遊”と名づけています。”宝遊”が発する波動を通し、多くの人と同調できたら幸いです。それが私に与えられた使命だと信じ、これからも謙虚に生意気に”宝遊”を作り続けたいと思います」<取材・執筆 弘恵ベイリー>
【プロフィール】
宝飾職人
新倉 憲明(にいくらのりあき)
1947年東京生まれ、69年に来米後、ジュエリー制作開始。74年 ティファニー&カンパニー入社。 77年3月ヴァン・クリーフ&アーペルズ入社、82年に35歳で独立し、独自の制作活動を始めるが、その間もティファニーで10年間、ヴァン・クリーフで 1年間勤務。76年国際ジュエリーアート展。81年”Year of Ear”NY AF Gallery。84年”Object for Living”Gellery 91。85年Japanese in NY Wearable Object”The VIB”Gellery Face、横浜高島屋。88年”Listen”Gallery Face、”Shiki”横浜高島屋。89年”For You”日本橋高島屋。Sointu(NY)、Electrum Gallery(London)ほかへ出品。