米国女性を過酷な労働条件から救ったのは女性だった!

木村愛子さんは、ILO(国際労働機関)活動推進日本協議会の理事長として、スイス、ジュネーヴで毎年行われるILO総会に1980年から、27回出席している。2012年4月、ニューヨークご訪問中にインタビューさせていただいた。


【プロフィール】木村 愛子
高知市に生まれる
東京女子大学文学部社会科学科(経済学)卒業
早稲田大学大学院法学研究科(労働法学)修士課程、博士課程修了
米国マウントホリヨーク大学、ハーバード大学大学院(社会関係学)に
フルブライト交換留学生として留学。(1960-1962)
東京家政大学教授(法学)(1989-1992)
日本女子大学人間社会学部社会福祉学科教授(法学・労働法・女性労働法制の国際比較研究)
(1992-2002)
東京都、神奈川県、埼玉県の労政審議会委員、埼玉県情報公開監察委員などを歴任。講演・執筆活動、多数。(財)日本ILO協会理事(2001- )
日本労務学会常任理事(2001- )
厚生労働省埼玉労働局最低賃金審議会会長(2003- )

3月8日、東京都内で開かれた労組の集会に招かれ、愛子さんは国際労働基準からみた日本の均等・均衡処遇の現状について講演を行った。そこでの内容をお話いただいた。

●NYトライアングルシャツウエスト工場の火災から生まれたアメリカの労働法

「国際女性デーの集会でしたので、国際女性デーがどうやってできたのか?をお話しました」
愛子さんがお話した内容は、1911年、ニューヨークのダウンタウンにあるトライアングルシャツウエスト工場で火災が起こり146人もの女工さんが命をなくしたことだった。

女性が社会進出をはじめた1909年ごろ、シャツブラウスが人気となった。トライアングル社は、中でもシャツブラウスを製造するメーカー最大手。

ここに雇われていたのは、主に若い移民の女工さんたちだった。500人近くがビルの8階から10階までに押し込められ、週6日56時間労働を強いられた。サボりや盗みを入念にチェックするため、窓やドアは釘付けされ、出入口には看守がいた。不衛生で湿度も高く、まるで日本の女工さんたちが働いていた野麦峠と同じような状態。そんな中、一人の女性が立ち上がり、労働組合を結成する会合に参加したのである。

トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランクは、その会合に参加した女性たちを職場からしめだした。反動からか勢いは増し、女工さんたちは一丸となってストライキに参加した。ストは全ての縫製産業に拡大し、新聞記者、ソーシャルワーカー、学者から、社会主義思想家やラビなどの僧侶までもがこの運動を擁護。さらに女性労働者によるデモ活動ということで、裕福な女性層も運動に参加し、社会現象へと発展していった。1910年、多くの工場は労働組合と、調停によって和解した。

しかしトライアングル社は、いつまでも労使の和解が成立しない一社であった。その1年後に火災は起こった。火がまわって出口をふさがれた工員たちは、熱さに耐えきれず、飛び降りる者もいた。もちろん、はしご車も出動したが、泣き叫ぶ工員たちのいる階までは届かなかった。30メートルもの高さから落ちた者もいれば、髪の毛に火のついたまま落下した者もいたという。叫び声と血まみれの死体が転がっている現場は、まるで地獄絵のようだった。

その凄惨な現場にたまたま居合わせたのが、フランシス・パーキンズだった。働きながらコロンビア大学院へ通う学生で、その日はワシントンスクエアで待ち合わせをしていた。火災の後に、工場調査委員会ができたとき「なんとかしなくては」と思った彼女は、メンバーに入った。

フランクリン・ルーズベルトがニューヨーク州知事だった時代、州労働局では局長に任命されたパーキンズは州の労働法改革の中心となり、労働環境や雇用条件の改善を実現させた。トライアングル社の火災で犠牲者が出たのは、弱い労働者を守る努力がなかった。いい労働法をつくらなくてならないと、パーキンズの提案で1935年に労働法(ワグナー法)をつくった。

その後、ルーズベルトが大統領となった際に、アメリカで女性初の閣僚である労働長官に就任する条件として、同様の政策の推進を支えることを大統領に約束させ、それがニューディール政策の原案になったという。

世界大恐慌後、ニューディール政策の一環として、公正労働基準法を1938年に法制化した。週40時間労働、労災保険制度、失業手当、児童労働の禁止、社会保障などを実現させ、国民健康保険にも取り組んだ。

その後にILOに関わるようになり、1944年にはILOのフィラデルフィア宣言に調印した。

ニューヨーク大学のキャンパスの一部には、このトライアングル社で亡くなった人たちの碑が残されている。

●女性の労働に関して

30~40才代になって初めて、自立の道を模索し始めるのは、少し手遅れではないか、女
性でも、遅くとも高校生位の頃から自分の人生設計をして、そのために準備をすること
が大切ではないか、と私は常日頃から考えています。その方向付けをしてあげるのは、
両親や教師たちですが、充分果たされているとは言えませんね。

まり(長女でバイオリニスト)の場合は、桐朋学園音楽高校に進学した時に、恩師の江藤俊哉先生がフィラデルフィアで選んでくださったヴァイオリンを購入し、
プロのヴァイオリニストになる決心をしました。そして、厳しい道を歩んで、今日に至りました。

私の場合は、高校生頃までは、ピアニスト志望でした。でも、昭和の初期に東京女子大
を出た母が、第二次大戦後、高知県の女性運動のリーダーとして活躍している姿に感銘
を受け、「日本の女性の地位向上」のために自分も勉強したいと考えるようになりまし
た。そして、東京女子大で経済学、早稲田大学大学院で法律学(労働法)、米国のマウ
ント・ホリヨク・カレッジとハーヴァード大学大学院で社会関係学、と勉強を重ねて、
「女性労働法制の国際比較」を専門とする研究者になりました。

そして結局、ILO(国際労働機関)の女性労働政策に関しては、日本では、ただ一人の研究者となりました。それが、現職:ILO活動推進日本協議会理事長に繋がったというわけです。「継続は力なり」です。

私は、現職務の任期があと1年ありますので、少なくともその間は、体調を整えながら
仕事を続けたいと思っております。

●離婚率が増え、離婚後に社会復帰する女性も増えているので、その支援をするNPO機関などが必要では?

中年になって初めて、離婚その他の理由から、生活に困っておられる女性たちを助けて
あげることは、勿論、大切です。そのために活動しておられるNGOの方々も少なくな
いと思います。でも、本人の自覚・心身の能力・努力・機会・運など、さまざまな要因
が関わるので、なかなか難しいですね。

●私の夫は家事をやりたがらないのですが、愛子さんのご主人はいかがですか?

私の夫は、封建的な思想の母親に育てられ、結婚するまでは家事一切しない人で
した。でも、MITにフルブライト留学をし、ケンブリッジMAで私と結婚した時から
次第に変わり、家事もできるだけやるようになりました。1980年から、私が、ILO総会
に出席するためジュネーヴに出張するようになり、毎年2~3週間留守をするようにな
りましたが、家事一切をやっております。

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