20年ほど前の話だ。
いよいよアメリカに渡るという日の一ヶ月ほど前、一人で一週間、旅に出た。
これといった目的地もなかった。とにかく日本をこの目で見ておきたかった。
西日本、特に広島、岡山の中国地方が好きで大学生の頃によく訪れた。
普通列車で行けるところまで行って夜は無人駅のベンチで寝袋にくるまって旅をした事もあったし、
車でとにかく行ける南の地まで行った事もあった。
この時は東日本、特に東北、北海道地方にまだ行った事がなかったので、
とにかく車を運転して北に向かって行けるところまで行こうと一人でひたすら走った。
旅のルールはただひとつ、高速道路を使わないという事。
お米を一袋と鍋とカセットコンロ。時々道端に停まってご飯を炊いて、
昼間はご飯に赤紫蘇のふりかけのおにぎりをほおばりながら、ひたすら北に向かって走る。
そして、夕食はその停まった土地の居酒屋でだいたい一人で飲みながら食べた。
どうせなら、眺めのいい海沿いの道を走ろうと東北地方の海沿いの道を北に向かって進んだ。
石巻、気仙沼、大船渡、釜石....
夜は路肩に車を停めて、車の中で眠った。
朝方、お巡りさんが窓ガラスをコンコンとたたいて僕を起こした事が何回かあった。
別に逮捕しようというんじゃないらしい。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です、車で旅をしてるんです」
僕の車のナンバープレートを見て、
「名古屋から来たの?」
「はい、金曜日までには帰ります」
「そうか、若いもんはいいねえ、気ぃつけていくんだよ」
「ありがとうございます」
青森ではわざわざ下北半島を縦断して大間崎から函館行きのフェリーに乗って津軽海峡を渡った。
5月のいい季節なのに東北の空も海も灰色にくすんでものすごく冷たそうだったのをぼんやりと憶えている。
心が重い...
あの東北の海沿いの町の多くがマッチ箱のように津波に流されていく映像を繰り返し何度も見た。
地球のほとんど裏側にいて、なにかやらなきゃという焦りと、なにもできない無力感。
今週は仕事がちっとも手につかなかった。
2001年9月11日のあの日のことを思い出していた。
あの時も、ダウンタウンにすっ飛んでいって、瓦礫をどかして一人でも多くの人を助け出したいという思いの
僕たちニューヨーカーの焦りと、
ワールドトレードセンターの現場に近づけなくて、
きな臭い異臭とともにダウンタウンから登る灰色の煙を眺めていることしかできない無力感をどうすることもできなかった。
僕はあの日、本当になにもできなかったのか、僕はあの事件に関して本当に無力だったんだろうか。
これだけは言える、あの日を境に世界が変わったかどうかはわからない、でもあの日を境に僕は変わった。
あの日、2001年9月11日にニューヨークで感じた焦りと無力感は、
僕の中に人と繋がっていたい、人のことを思いたい、
人のために何かをしたいという思いがあるということを初めてわからせてくれた。
それはその後10年間の僕にとってとても大きな流れを変えることだった。
その思いがこの10年間の創造のテーマであったと言ってもいい。
僕は今、気持ちを落ち着けて今現在起こっていることをしっかりと見届けようと思っている。
目をそらさずにじっと見届けよう。
僕も含めた日本人は、そして世界の人達はこの大震災に際してなにをしようとしているのか。
福島第一原発でなにが起こって、僕たちはエネルギー問題でいったいどこに行こうとしているのか。
株が急激に下がったり円高になったりするのはいったいどういうことなのか。
そして、感じたこと、影響を受けたことをしっかりと胸に受け止めて表現者としてこれからも生き続けようと思う。
普段は有料のテレビジャパンというNHKをずっと放送しているニューヨークのケーブルチャンネルが、
東北関東大震災を受けて無料でずっと放送していて、
今このブログを書いている時点でもNHKの日本での放送がニューヨークでも同時に見られる。
今、3月21日現在では、孤立していた被災地の避難所に少しずつではあるが物資と人員が届き始めてきている。
炊きたてのご飯とお味噌汁。地震から一週間ぶりに入る温かいお風呂。カメラを向けると被災者のお年寄りは言う。
「ありがたいです、本当に感謝しています。」「生きていてよかった」
そして、涙ぐむ。
ありがたいなんて言われる資格は僕にはありません。
僕たちは本当はすぐにでも駆けつけて同じ日本人としてそばにいてあげたいんです。
もっとできることがあるんじゃないか。もっと...もっと...
今僕にできること。
それはまず表現者として大震災後、感じていることを大きな声で言うことだろう。
僕は日本人が大好きだ。
日本という国が好きかと聞かれたら正直、言葉に詰まる。
国家や国境という概念はいつか無くなってその土地の文化圏だけが残るのが理想の世界だと思っているし、
愛国心を詠うのも世代的に気恥ずかしい。
でも、自分なりに世界を見てきて客観的に言っても日本の文化よりも洗練された精神性の高い文化はまだ見たことがない。
そして日本人よりも礼儀正しくて、穏やかで、優しくて、精神性が高くて、感謝の気持ちで溢れている人達にもまだ会ったことがない。
毎年12月には「くるみ割り人形」の公演のためにメリーランド州の小さな町で二週間ほど過ごす。
田舎のバレエカンパニーなのでホテルに泊まらせてもらう予算はなく、
いつも衣装を手伝っているカンパニーメンバーの一般家庭に滞在させてもらっている。ここの家の人達がなんともいい。
もうかれこれ10年ほどの付き合いになるので、お互い好きなことを言い合う友人宅という表現の方が合っているかもしれない。
ここの旦那さんが、すでに退役しているが、キャリアのほとんどをアメリカ軍人として生きた人で、
日本の米軍基地にも何度も行ったことがあるというので、よく日本の話をいっしょにする。横田、横須賀、佐世保、厚木、沖縄。
そんな彼が日本でのある体験談を話してくれたことがある。
すでに退役していた彼が友人と連れ立って日本旅行をした。旅の最後の日、
上野から成田空港に向かう電車の中で彼の友人が貴重品の入ったセカンドバッグを失くしたことに気がついた。
そこには財布はもちろんパスポートも入っている。これでは飛行機でアメリカに帰れない。
上野駅で成田空港行きの電車の切符を買ったので上野駅で失くしたことだけはわかっている。
慌てた一行は京成電鉄の車掌さんにわけを話すと、その車掌さんは慌てる様子もなく
「上野駅に連絡取ってみますね。バッグの色と形と中になにが入っているか教えてください。」
すっかりあきらめて滞在延長の覚悟を決めた彼の友人のもとへ、先ほどの車掌さんが戻ってきて、
「上野駅でみつかったそうです、次の電車で成田まで届けますので駅で待っていてください。」
半信半疑で成田空港駅で待っていた彼らの元に車掌さんの言った通り、セカンドバッグは届けられた。
中身を真っ先に調べるとパスポートはもちろん、現金でさえも手つかずのまま彼の手に戻ってきたそうだ。
帰りの飛行機の中で、彼の友人はしみじみと言ったそうである。
「俺は引退したら日本に移り住みたいと思う。」
もう一度言おう。
僕は日本人が大好きだ。
がんばれ、日本人!!
<やす鈴木>