先週の日曜日、アメリカの演劇界で1960年代から今日に至るまで、若い劇作家、俳優、デザイナーに創造のチャンスを与え続けてきたオフ・オフ・ブロードウェイの草分け的シアター、ラママ劇場を創設したエレン・スチュワートさんの90歳になる誕生日を祝いにイーストビレッジまで出かけてきた。
日本の皆さんには一昨年、2007年度の高松宮殿下記念世界文化賞の演劇映像部門を受賞した黒人女性といえばお分かりいただけるだろう。
1961年、それまで8年に渡ってサックス・フィフスアベニュー、バーグドーフ・グッドマンでデザイナーとして活躍してきた彼女がある日、イーストビレッジを歩いていると「地下室賃貸テナント募集中」のサインが目にとまり、そこを自分のデザインした洋服のブティックにしようと思い立った。
しかし、彼女の友人で劇作家のポール・フォスターが 「この場所は素晴らしいシアターにもなるよ」 と提案した時、彼女の人生は大きく方向を変えて行った。
それが、後にアメリカ演劇界の方向をも大きく変えて行ったラママ劇場の誕生である。
この時代のアメリカで黒人女性がなにか事業を起こすというのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。女性の社会進出の難しさの上に黒人差別とも闘って行かなければならなかったからだ。幾度かの立ち退き命令にも負けず、イーストビレッジで何度も引っ越しを繰り返してでも若い劇作家達の為に彼女はラママ劇場の運営を決してやめなかった。
立ち退き命令や資金難に直面する度に芸術を愛する人々によって支えられて奇跡ともいえる復活をとげている。最初に劇場を立ち上げたビルに住むアパートの住民によって、「地下室でいかがわしい売春行為が行われている」 という根も葉もない難くせを付けられて立ち退きを迫られた時、その調査にやって来た市の職員がたまたま引退したボードビリアンだった。
若い芸術家の為に奮闘している彼女の姿に感動して、彼は立ち退き命令の替わりに飲食店経営の許可証を発行してカフェ・ラママとして劇場が続けられるようにアレンジした。
1991年、ジョージ・ブッシュ(パパ・ブッシュ)大統領時代の湾岸戦争後の大不況の時代、芸術に対する政府基金は真っ先に縮小された。
ラママ劇場も政府からの基金を絶たれ、存続の危機にあえいでいた。
その時には、ロバート・デニーロ、ビリー・クリスタル、F・マレー・エイブラハムなどのラママ劇場と関係の深いハリウッドスターが、中心になってラママ劇場の為に基金を募り、またもや存続の危機を乗り越えた。
こうして、現在に至るまで、48年の歳月に渡ってラママ劇場とエレン・スチュワートはアメリカ演劇界で若い芸術家にチャンスを与え続けてきた。
このラママ劇場で生まれた作品は今ブロードウェイで再演が行われているミュージカル、ヘアーを始め、ゴッドスペル、ジーザス・クライスト・スーパースターと数限りない。そして、アメリカ演劇界にとどまらず、世界中の演劇人にもラママ劇場をアメリカ進出の最初の劇場としてチャンスを与えつづけてきた。
日本からも1970年代、80年代に東由多加率いる「東京キッドブラザーズ」、寺山修司率いる「天井桟敷」もこのラママ劇場をアメリカ公演での家としていた。
この劇場で若き日に舞台を踏んだ俳優も、アル・パチーノ、ベット・ミドラー、ニック・ノルティー、ダニー・デビート、ハーベイ・カイテルと数え上げたらきりがない。彼女はまさにアメリカ演劇界でママとして慕われつづけてきたのだ。
2001年、僕は妻と一緒に “RANT” という芝居を作った。
出演者は信頼のおける友人の役者達。 もちろん、舞台小屋を借りる資金もない。
初舞台は出演者の友人宅のブルックリンにあるロフトアパートメントだった。
ブロンクスの教会、ウェストビレッジの小さな芝居小屋などで、公演を重ねていき、ついにラママ劇場のスタッフの目にとまった。
そして2002年6月24日、ついに僕たちの芝居 “RANT” は、ラママ劇場で公演することになった。
当日の公演前のリハーサル、僕たちがダンスのリハーサルをしている時にエレン・ママは僕たちのリハーサルを見に来てくれた。
僕たちが踊っている舞台を見て、「あら、これ楽しそうじゃない」 と音楽に合わせて一緒に踊り出した。
僕は、いつも舞台の上で人間として成長させていただいてきた。
中学1年生で演劇部に入り、その時に僕たちを指導してくださったのは、今年の1月に76歳で亡くなった林敏秋先生だった。
僕たちの中学校では美術を教えていただいていたが、本業は名古屋の劇団に所属する素晴らしい俳優だった。
僕たちは親しみと尊敬を込めて “びん先生” と呼んでいた。
1年生だった僕は生まれてはじめての舞台 “ミラボロリン” という芝居の主役を秋の文化祭で演じることになったが、一人っ子で甘やかされて育った僕は、ある日、夏休みの稽古を休んだ。
一日休むと、なんだか次の稽古に行きづらくなり、二日三日と休んでいくうちに、とうとう秋の文化祭に向けての夏休みの稽古を全部休んでしまった。
将来は俳優になりたいとその時ぼんやり考えていて入った演劇部だったけれど、
「なんだかこのまま、やめていってしまおうかなぁ。人にまどろっこしい説明や弁明をするよりも自然消滅しちゃったほうがいいかなぁ...」 と
ずるずると消えていこうとしていた。
その時、自分ではまったく気づかないうちに、これからの人生の方向を決める岐路に立っていた。二学期が始まって、びん先生にはみんなの前でしっかりと叱られて、主役も降ろされた。その経験で僕は本当に大切なことを学んだ。
「俳優の仕事は、稽古でも本番でもそこに姿を現すこと。それが俳優の99%の仕事。
いくら才能があっても、姿を現せない人間には人の心を動かすことはできない。」
それは、舞台に限らず人間として本当に一番大切な仕事であると今でも考える。
それからは、稽古を休まなくなった。中学2年の夏に母親が脳出血で倒れ、そのまま植物状態になった。病院での看病を続けながらも稽古は休まなかった。
びん先生が僕をあきらめずに信頼してくれて、その年の秋の文化祭でまた僕を主役に選んでくれたからだ。
今、振り返ると人生の岐路で必ず誰かが、僕を導いてくれている。
エレンママ、びん先生、ありがとうございます。<やす鈴木>