ニューヨークでおこなわれたハイチチャリティーイベント。
KensukeとMahoの繰り出す技が決まるたび、オーディエンスは感嘆の声を上げる。
テーマはThe Doppelganger(ドイツ語で「二重の歩く者」の意。英語では「Double」)。
日常のなかに導かれたように現れた、見えるはずのないもうひとりの自分。
別々に平行する存在が交差する瞬間。あるはずのない影が告げるのはそう遠くない未来に訪れる死。
二つの影となったMahoとKensukeが紡ぎ出す、しのびよる不可解な存在と張り詰める緊張感に、会場から歓声が途切れることはなかった。
「こだわらない」にこだわるダンサーがいる。
Kensukeに出会ったのは42ndStreet近くの小さなデリのようなレストラン。
ストリートダンスのアメリカの大会で優勝したダンサーと聞き、いかついアニキ風人物を想像していた私の前に現れたのは、
動きやすそうなスウェットに身を包んだ爽やかな青年。ヒップホップというよりも無駄なものを取り払ったコンテンポラリーダンサーのような印象。
ショップやレストラン、映画や演劇を観に訪れた人々でごった返す昼間のタイムズスクエア界隈で、
ギラギラした初夏に思わず冷風に出くわしたような気分だ。
SMAPのSoftbankのCMをはじめ多数のCMに出演、
2009年に制作された映画「虹の町」にもダンサー役として出演している。
2006年Best of the best (アメリカ カンザス州) 優勝
2009年Juste Debout New Style部門 (フランス パリ) 16位
2009年Bordaless vol.1 2 ON 2 (日本 群馬) 優勝
2010年Ice Cream Contest(日本 東京) 優勝
若干22才。高校のころからダンスを教えていたというKensukeの実力は数々のダンスコンテストで打ち出した上記の結果を見ても明白だ。
特にJuste Deboutは世界中から予選を勝ち抜いたダンサーが集まるストリートダンス世界最高峰のイベント。
ここでKensukeはパートナーのMahoと共に、最終予選一位通過、本選16位という好成績を打ち出している。
Juste Debout最終予選会場であるパリの市庁舎
最終決戦がおこなわれる収容可能数二万人のBercy Studium
Kensukeは群馬県高崎市出身。
きっかけは、中学生のとき、TV番組で見たブレイクダンスバトルだった。
高校生になってようやく通うことを許された地元のダンススタジオ。
「不思議な感覚でした。全くの初心者で踊りもうまくできなかったんですが、これならずっと続けていけると感じたんです」
スタジオには毎日のように顔をだし、当事のインストラクターも知らないような情報まで収集するようになった。
高校卒業後、18才のとき渡米。
シャイで女性と話すのも苦手だったというKensuke。英語でのやりとりにはじめは戸惑ったが、言葉よりも相手とわかりあうことのできる能力を磨くことの重要さに気づいた。
NYで一年間通ったBroadwayDance Center(BDC)。
Kensukeはここでジャズやバレエ、アフリカンなど多様な表現を使いこなすダンサーにたくさん出会った。
「とにかくいつ見ても同じ事をしないんです。様々な方面からいろんな要素が混じり合ってひとつのヒップホップになる」
Kensukeの多様なダンススタイルへの挑戦はここからはじまったといえる。
「ジャンルや技術だけにこだわっているとただのスポーツになってしまう。ハウスはハウスの踊りだけとか同じ踊りをしているのなら、極端な話、音楽は不要になってしまう」とKensuke。
まず音楽があって、重なり合う感情や風景を体が捉えたとき、はじめてダンスが生まれる。
国内外で多くの栄冠を手にし、自信に満ち溢れていたkensukeだが、帰国直後は本場で身につけた実力が評価されずに苦しだという。
「たぶん海外に留学から帰ってくるダンサーさんのほとんどは経験されていると思います。でもいろんな人と出会って、人との繋がりの大切さを学びました」
2009年は好成績をおさめたJuste Deboutも、翌年は予選落ちという悔しい結果に終わった。
「甘かったなって思いました。前回と同じ事をしてもオーディエンスは喜ばないし満足しない。常に二つ先のことを、びっくりすることをしないと」
既にヨーロッパをはじめ数々のコンテストに出場経験のあるKensukeだが、まだまだいろいろなことを吸収したいと語った。
Kensukeのしなやかなダンスはこだわりなく吸収したいという姿勢が現われているかのようだ。
プライベートで聴く音楽も、坂本龍一、Orange Pekoe,Paris Matchと多様。
「幅が狭まるのが嫌なのでいろんなものを聴くようにしています。いろんなことにオープンでありたい」
時にはジャズ、ハウスなど、Kensukeのダンスはヒップホップだけにとどまらない。 Kensuke(左)とMaho(右)
現在は地元群馬で週に一日のダンスを教えながら、東京と往復する生活。
生徒は子供から大人まで幅広い。
留学するまでの約3年間ほぼ毎日通ったスタジオで、既に教える側としての教育も受けていたKensukeだが、
ひとりひとりが納得するように、それでいて生徒全員に満足してもらえるようなクラスにするのは、簡単なことではない。生徒を育てるという立場に対する責任もある。初めて気づくことも多い。
指導する立場になって、はじめて自分を育ててくれたインストラクターの大きさがわかった。恩師にはまだまだ追いつかないと思う。
「ダンスはこうでなければというような先入観を取り払うように心がけています。ダンスの種類から教えたり、そこから生徒の能力や適正が広がっていけばと思います」
東京と比べると情報も遅く、ダンスを見る機会も少ない地元で、国内外の数多くのコンテストに参加経験のあるKensukeは自身が発信源のひとつになれればと考えている。
「今後はダンスだけではなく、振り付けなど何でもやってみたい。ヨーロッパのワークショップにも行きたいですし。
Mahoと二人でコンテストを制して、こんな人もいるんだ、こんなダンスもあるんだと夢を持ってもらえるようなダンサーでありたいと思っています」
筆者のヒップホップへの先入観を根底から覆してくれたKensuke、その体の動きが音楽と重なる時、流れるような柔軟さは可能性の扉を次々に開いていく。
Kensukeのこれからに目が離せない。
(取材・記事 Yoshiko Sakamoto)