アメリカでアメリカ人や日本人のクライアントに、パーソナルトレーナーとして栄養学やエクササイズを教えている。アメリカ人女性の中には、栄養の偏ったファーストフードみたいなものしか食べてない貧しい人たちに肥満が多い。では、なぜファーストフードを食べることをやめないのか疑問に思ってたときに、知り合いの黒人女性が言った。
「治子、黒人の歴史を知っている?私たちは奴隷としてアメリカへ連れてこられたの。生きていくことだけで精一杯な中で子供を育て、生き残ることを考えていたのが、お婆さんたちの代。次のお母さんたちの代(今の50代後半ぐらいの女性)で、子供にファーストフードばかり食べさせていては、良くないのでは?と、考えられるようになって、ようやく私たちの代で普通に「健康」を考え始められるようになったの」アメリカで「健康の大切さ」を伝えるには、文化や歴史なども知る必要があるのだと気づいた。そして「健康的なライフスタイル」とは、何代にも渡って構築されていくのだということにも気づかされた。
16歳のころから人を健康にしたいと思い始めた。「今思えば、私は自閉症気味だったと思います。生まれつき人とつながるのが苦手でした。朝はいつも不機嫌で、笑顔も無く、やる気の無い子供でした。友達は来ては去りでいなくて、気がつけば一人きりでした。成績も悪くて家庭科と美術しかできない子で、何を考えてるのかわからない上、思ったことを口にする空気をよめないタイプだったからか、男の子たちにいじめられていました。先生からも忘れられる陰のうすい存在で、卒業式も『よくやめずに卒業しましたね』と先生から驚かれたほどです」だが、それもたいして気にならなかったという。
「家族が自分を受け入れて、守ってくれていたからだと思います。母の『あなたは骨盤が狭いから出産のとき大変かもしれないから、柔軟体操をしなさい』という言葉で中学生のときに大好きな姉の後を追って器械体操部に入り、毎日柔軟体操していたところ、なぜかクラスで一番足が速くなりました。それがきっかけか、友達もできるようになりました。体操部の部長に選ばれたことで、先生からもようやく名前を覚えてもらえたのです。この時に、何かの扉が開いた気がしました。そこからは人生がとても楽しくなりました。
人とつながることって健康に影響するのだと実感しました。高校でも器械体操部に入りましたが、段違い平行棒で頭から落下した恐怖から、何もできなくなり、一時は断念しました。が、その後、高校2年生の時にエアロビクスダンスに出会いました。衝撃的にこれを職業にしたい、これなら運動で食べていけるって(笑)」
そんな中、女優のジェーン・フォンダのスタジオインストラクターによる養成コースが、神戸で行われることになった。「フラッシュ・ダンスという映画のブームも伴って、衣料品メーカーからは、フィットネス向けのカッコいいスタイルのものが出てくるようになりました。私はエアロビクス養成コースへ通うのに、主役のジェニファーが着ていたのとまったく同じ、ワコールからでていたハイレグの黒のレオタードと肌色のタイツ、レッグウォーマー、そしてリーボックのスニーカーをすぐに買いました」
当時は、「フィットネス、ストレッチ」といった言葉も新しい言葉として日本に入ってきたばかりだった。「『フィットネスクラブ』は、まだ日本に存在しておらず、小さなスタジオが点在していたのを覚えています」
こうして高校生のころからエアロビクスのインストラクターとして働きはじめた。そして16歳でカリフォルニアへ行き、エアロビクスを学ぶためにホームステイしたという。「カリフォルニアでは、色々なスタジオをまわりました。エアロビクスは運動ですから、難しい英語をしゃべる必要なかったので、アメリカに来たっていう意識はなかったです。とにかくエアロビクスをやってるときは、本当に楽しかったですね。アメリカでインストラクターとして教えさせてもらう機会もいただきました」
エアロビクスは、もともとアメリカの運動生理学者ケネス・クーパー氏が、宇宙飛行士の心肺機能トレーニングプログラムの一環として開発したものだという。空気圧のもとで無意識的に育っている人間の骨や筋力は、無重力の状態だと、どんどん弱くなっていくのだという。
「アメリカにきて衝撃だったのは、日本のエアロビクス教室ではインストラクターがやるとおりに、皆があわせてやるのだけど、アメリカ人女性たちは、それぞれの体形や年齢にあわせて、自由に違う踊りをしているんです。自由で楽しくって、これがエアロビクスだと思いました。アメリカでインストラクターとしての経験もあったことから、日本に戻るとたくさんの仕事に恵まれました。ラジカセもCDもなかったから、レコードを抱えてスタジオを回って、毎日夜遅くまで次の日のプログラムを作りました」
ところが厳格な父親から、エアロビクスのインストラクターになることを反対され、地元の4年生大学の国文学科に入学、大学へ通いながらインストラクターを続けることとなる。バブルにのった派手な女子大生たちがポルシェに乗った男たちと街中へ消えていく姿にも目をくれず、エアロビクス一色だったという。大学卒業後もまだバブル景気は続いており、フィットネスブームだったこともあり、商社やドリンクメーカーが、競うようにフィットネスクラブの運営をはじめた。
「卒業後は、フィットネスクラブに就職しました。すでにエアロビクスのインストラクターとして8年近いキャリアがあったのと、父の言うことを聞いて大学を卒業していたおかげで、関西のまとめ役になる機会を与えられ、東京勤務になりました。
そこでパーソナル・トレーナーの夢が芽生ることとなりました。アメリカで自由にエアロビクスをやっている女性を見てきた経験からか、全員が違うカラダなのに、フィットネスクラブでは画一的な指導しかできないことに疑問を持ったからです。
プライベートは、関西とまったく違う東京での暮らしで寂しかったです。その上、肺炎にかかり、1年でやめることを決意しました」
25歳の時、別のフィットネスクラブで『チーフ兼ディレクター』のポジションを得て、パーソナル・トレーニングをクラブ内で行う夢をかなえることができた。「しかしそこでも、クライアントともっと一緒に現場にいて運動したい。彼らのためにもっと時間を掛けて個別のプログラムを作りたい。ここはまだ本当に自分の求めているものとは違う。そう思い始めてしまうといたたまれず、3年で辞めてしまいました」
いっそのこと経営者になれば自分のやりたいことがやれると、アクティヴ・バース・フィットネス・サポートというフィットネスクラブをコンサルティングする会社を立ち上げる。「ジムのマシンを売ってた人から、マシンを売った後の説明とオープニングスタッフの研修をする仕事をいただきました。それには、今までやっていたこと全てが、役に立ったのです。
フィットネス・スタジオクラブの運営は、設計の段階からコンサルタントのアドバイスが必要です。運動する人たちが足を痛めないよう、どんな板をはるのか、どのメーカーの音響設備を整えるべきか、体力測定内容の選定、ペイントの配色、電源のコンセントの配置、マット、空調、シャワールームの排管もすぐに髪の毛がつまってしまうということなど。とにかく楽しかったです。
けれどもそこでもまだ何かが違うと、悩んでいました。『自分と同じように、運動で人生が変わる子供たちが世の中にたくさんいるのではないか』と、思い始めたのです。同時に、いくら科学的に完璧なプログラムを作っても、クライアントの心の状態がトレーニングの結果に影響することに気づきました。心の事が知りたくなり、さまざまな本を読みあさりました」
同年、パーソナル・トレーニングのサービスも始め、いよいよクライアント第一号の方と契約。長年の夢だった、クライアント宅で、のびのびしたトレーニングを行うことが実現したという。
「そこからは夢のような毎日でした。少しづつクライアント数が増え、世の中にもパーソナル・トレーナーの認知度が上がってきました。2003年からは、ストレッチとピラティスのグループレッスンを世田谷の豪徳寺で始めました。近所の人々とつながり、健康を伝えたかったのです。パーソナルトレーニングをクライアントの自宅で行い、地元では、地元の人にスタジオで教えるという生活が基盤になりました」<敬称略 取材・撮影 ベイリー弘恵>
後半へつづく
【プロフィール】
スタントン治子(すたんとんはるこ)
1967年、神戸市生まれ。神戸女子大学卒業。1983年からインストラクター、トレーナーの仕事を開始。心が閉じていた幼少期、10代から持つ慢性的な股関節の痛みによって、心と体の健康に興味を持つ。解剖学、運動生理学、栄養学を独学で学び、1994年、東京にてパーソナルトレーニングサービス開始。女優・大竹しのぶさんや、ヴァージン・アトランティック航空元日本支社長のポール・サンズ、チエコ夫妻ら多くの著名人・財界人、のべ2000人以上にトレーニングを提供。NHK総合テレビ「いっと6けん」エクササイズのコーナーで指導。健康に関する記事多数。2014年、結婚を期にニューヨークへ移住。スポーツ栄養学ディプロマ、ヨガ、ピラティス、ジャイロキネシス認定。「STANTON’S」代表。
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