大学で声楽を教える時には、教師であることよりも、生徒との人間同士のつながりを大切にする。これまでも、人とのつながりを大切にして生きてきた。舞台でオペラを歌う時も、聴衆とは見えない糸でつながっている。自分の歌によって聴衆が泣き、笑うのだ。
「私が聴衆の感情をコントロールしているのだと分かる瞬間があるんです」
1991年、声楽を学ぶためニューヨークに来た。翌年、米国オペラ界の登竜門であるリーダークランツ・コンペティションで優勝。すぐにエージェントがつき、メトロポリタン・オペラでの歌劇「リゴレット」のジルダ役の控え歌手となった。
そんな大きなチャンスを短期間で得たからか、周りからは何の苦労もなくプロになったと思われることもあった。しかし実際には、日本人がアメリカでオペラ歌手を続けるのは容易なことではない。「それらを人とのつながりによって克服してきました」と言う。
まず人種の壁がある。東洋人には、西洋人の役はなかなか回ってこない。駆け出しのころは、エージェントとのつながりを大切にし、要請があればどんな仕事でも引き受けた。代役の急な仕事で遠方に行くことも多い。ある時、脳腫瘍で倒れた歌手に代わって、エリー湖の近くでヴェルディのレクイエムを歌うことになった。歌ったことのない曲だったが、舞台は3日後。その上、出演料は決まっているので、高い航空券は買えない。
結局、長距離バスに揺られながらの旅。楽譜を持ち込み、CDを聞いて覚えた。
そんな苦労を続けるうち、『蝶々夫人』の主役に抜擢され、ウォール街にあるトリニティー教会で歌った。5年後には、「香の蝶々夫人を観ないうちには、蝶々夫人を観たとはいえない」と人々が絶賛するほどの評判を得る。
「蝶々夫人の役は、同じ日本人女性だからこそ分かる心の機微や、繊細な立ち振るまいもありますが、実は自分の経験と重なる部分も多かったんです」
蝶々夫人が愛する人と離ればなれになる感情は、日本の米国大使館で永住権取得を拒否され、その場で気を失った時の自分の記憶とだぶる。恋人や友人とのつながりを広い海で隔たれ、気がつくと呼吸をしていないこともあった。医師の診断は不安神経症。それほど恋人との再会を待ち焦がれた。
「この時も、日本政府の公務に携わる人の援助があり、ひと月ほどでアメリカに戻ることができたんです。人とのつながりに助けられました」
苦労といえば、火事で大変な目にあったことが今でも忘れられない。ある週末の朝、マンハッタンの自宅アパートで、夫婦でゆっくりコーヒーを飲んでいた時、階下のレストランから炎が上がった。その時の火災臭からか味覚がなくなった上、精神的ショックで歌詞が覚えられないという体験をした。言葉があやふやなまま舞台に立つしかなかったという。
「恥ずかしくて辛かったけれど、ドイツ語に聞こえるように歌いまくりました」と当時を振り返る。これを機に、のんびり暮らしたいと郊外へ引っ越した。
今は、歌手活動とともに、大学でマスタークラスを受け持つ。これまでのオペラ歌手としての経験を生かし生徒たちに伝える。将来「これが香の言っていたことだ」と、彼らに気づいてもらえれば本望だという。
「歌手を目指す生徒たちの中には、その夢を叶えられる子もいれば、そうでない子もいます。私にとっても辛いことですが、それを別の方向へ導いてあげるのも生徒への愛情だと思っています。将来を夢見ている生徒たちの、一番大切な人生の分かれ目にかかわっていることに、とてもやりがいを感じています。次の世代に希望を託すのは楽しいです」
これまで培ってきた人間同士のつながりはしっかりと根を張り、これから更に枝分かれしていくようだ。<取材・執筆:弘恵ベイリー>
【プロフィール】
オペラ歌手、声楽科准教授 佐藤 香(さとう かおり)
仙台出身1991年ニューヨークのマネス音楽院修士課程に留学。92年オペラ歌手の登竜門として名高いリーダークランツ・コンペティションで優勝。リン カーンセンター・デビューを果たし、プロ演奏活動開始。93年修士号を取得後、『蝶々夫人』『ラ・ボエーム』『トゥーランドット』『フィガロの結婚』『カ ルメン』『リゴレット』など、数々のオペラで全米各地やヨーロッパで活躍。現在、ニューヨーク州立大学パーチェス音楽院準教授。
【関連URL】
2013年3月ニューメキシコのOpera Southwest で香さんが「蝶々婦人」を演じます。
場所:National Hispanic Cultural Center
1701 4th Street SW
Albuquerque, NM 87102
Main: (505) 246-2261
Sunday, March 17 2pm, Tuesday, March 19 7:30pm, Friday, March 22 7:30pm and Sunday, March 24 2pm
www.operasouthwest.org/operas/madama-butterfly
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