弘恵ベイリーがNYで暮らすこととなった経緯

今回はタイトルどおり、なぜ私がNYへ来たのか?ということについてふれてみた。

「どうしてNYへ行くのか?目的もなくてNYへ行くとつぶされるにちがいない。」
一人でNYへ行こうと決めた私に会社の同僚が言った。

福岡で主婦を5年、主人の実家が大分で年末年始には映画館もファーストフード店も無い田舎で過ごす。
人も歩いていない緑の木々に囲まれた山を走る車の中、なぜだか自分だけは夢の中にいる気分だった。
そこに存在する自分が不自然だと感じる。やさしい主人と安定した生活。なにが不満なのだろう?

同僚の言うとおり、NYに来る目的なんてなかった。
ただ大学時代からあこがれていたこの街で生涯一度だけ生活してみたかっただけなのだから。

主人に反対されながらも、3ヶ月だけという約束でパートで貯めたわずかなお金を持って成田を発った。
飛行機の中で中国語しか喋れない爺さんに、入国審査の用紙の書き方を聞かれる。
爺さんは、既にアメリカ国民だった。それでも英語はまったく喋れない。

アメリカ(NY)って言葉ができなくても民族を受け入れることのできるスゴイ場所なのだとなんとなく思った。

そのことがきっかけで隣の席に座っていた大学へ通う目的で渡米している男の子に遭遇する。
男の子は、目的のない私にいろいろと助けの手を差し伸べてくれた。

日本食レストランやスーパーにルームメート探しの張り紙があることを教えてくれたのも彼だった。
何件か電話してみるが、週末だったためか、なかなか電話に出てくれる人がいない。
なんとか電話がつながったのは、イーストビレッジの地下のワンルーム。

イーストビレッジは今や、日本の若い人たちがNYで住みたい場所の人気スポット。
それでも当時はホームレスの人たちが道端で寝てたりして、
アルファベットアベニューと称されアベニューAから東側は危険とされているエリアだった。

日系のTV製作会社に勤める日本人の男の子とルームメイトとなった。
レゲエやジャズという彼のCDラックを見て一発で決めた。まさにNYらしいって思ったからだろうか。

毎日なにをして過ごせばよいのかをタウン情報誌で探す。
生活したかっただけなのだから学校なんて興味ないし、あまりに暇だし、お金もなくなっていった。
ジョブエージェンシーに面接へ行き、仕事探しを始めることにした。

最初に面接へ行ったジョブ・エージェンシーの社長から
「アメリカの大学を出ていても就職って難しいのよ。レストランのフロントやウエイトレスをしている人もいるのよ」と聞いた。
鵜呑みにした私は、彼女の勧めで、高級な日本食レストランのフロントでマネージャー見習いとして働くこととなった。

NYに来た記念に、一つは高いものを買おうと思いマウンテンバイクを買う。
レストランへはこれで通った。メッセンジャーの兄ちゃんらと共に、ミッドタウンを駆け抜ける。
イエローキャブの攻撃を交わしながら、たまに男の人から声をかけられたり、車にぶつかりそうになったり。
貧乏な生活だけど、NYの街を走るこの瞬間に自分を見つけた気がした。

約束の3ヶ月が過ぎ日本へ帰る。しかし日本には離婚の話をしに帰ることとなった。
NYだと自分らしく生きていけそうだとぼんやりと考えてる3ヶ月の間、主人は私とは正反対の従順な女性と一緒になっていた。
どうやら私がNY行きを決めたころから付き合っていたらしい。

なんとなく気づいてはいたのだが、さすがに離婚となると辛い。
「NYへ行くのはあきらめるから、離婚はやめよう」と泣きながらお願いしたが、離婚届には印が押された。
長い付き合いだったから主人は私の心を見抜いていたのだろう。

もうNYにしか居場所がなくなった気がした。

再びNYへ戻りレストランの仕事を続けるが、一年もすると退屈に思えてきた。
客の為にドアを開けて席に案内するのが仕事である。サービス業は自分の性に合わなかった。
日本にいてもこの職業を選ぶだろうか?と疑問に感じてきたのだった。

日本にいた時のように会社に勤めよう。これが当時の私のNYでの目的といえたかもしれない。
偶然、職探しをしている日本では英語教師だった女性が同じレストランに入ってきた。
「日本でコンピュータープログラマーのキャリアがあるんだから、きっと仕事を探せば見つかるわよ」と言われ、
今度はその言葉を鵜呑みにする。

就職活動は大変だった。英語も満足にしゃべれない、ビザもない人間を雇う会社なんてあるはずがない。
面接をしてくれる会社は手当たり次第に回った。スニーカーをはいて地下鉄で面接先まで行き、
ビルの入口で黒いパンプスに履き替える。とにかく面接してくれる会社へは、
タクシー会社、家具の会社、銀行などどんな会社でも行った。

その間もレストランの仕事は続けていたが、どこからか私の就職活動の話が経営者の耳に入り、突然に解雇された。
経営者は、私がマネージャー見習いで入っていたのに、勝手に仕事探しをしていたことが気に入らなかったらしい。
アメリカは解雇なんて当たり前の社会。

ウエイトレスの仕事を探しながら、オフィスの仕事も探すという窮地に追い込まれた。しかし
ダウンタウンでウエイトレスをしたり、ミッドタウンのバーでバーテンダーをしたり、思った以上に
人間やればできるものだ。とはいえ、大学時代にホテルで朝食のウエイトレスをしていた
経験がここで役に立ったのだ。

「芸は身を助ける」って言葉のごとく、どんな事でも、やってきたことは無駄にならない。

とうとう就職先を見つけた。ニュージャージー州にある半導体を輸出入する日系の会社だ。
日本へいったん戻ってワーキングビザ(H1-B)を手に入れて働き始める。
社長に気に入られ、秘書のようにして働いていた。ところが会社は傾きかけていたらしく、入社3ヶ月目に不運にも倒産。

会社の差し押さえというのは容赦ない。
冷酷かつ円滑に進められる。

テレビドラマの刑事が犯人の目の前に捜査令状を差し出して踏み込むかのように、
ダダーッと流れ込むように4、5人の人が踏み込んできた。 税務署の人たちだった。
白い紙をかざして「この会社は倒産した」と告げた。

険しい面持ちの彼等は社員数名の名を呼び、それ以外の人は荷物をまとめて5時までに退出するよう、きっぱりと言った。
長年勤めてきた日本人の女の子達は泣き崩れた。

社長の一言を最後に私たちは会社とは無縁の存在となった。社長はさすが日本人、
「君たちのおかげで、素晴らしい会社を持つことができたことがありがたい」と最後の言葉を丁重に述べて深く頭を下げた。

再び就職活動が始まる。

ここで日本へ帰ってしまうのは人生を捨てることと同じくらいの挫折感を味わう気がした。
面接にいくペースは前にもまして1日3社という日もあった。
それでもなかなか仕事は見つからない。前の会社のビザは倒産と同時に切れてしまっている。
アメリカを出て行かなければいけないという焦りと、出て行けないという強い意思が闘ってくじけそうにもなった。

今思うと、一日1ドルの食費で生活したこともあった。一番辛かったのは、日本の正月のように、家族で集まって
ご馳走を食べる感謝祭の日。ルームメイトも仕事で戻らず、レストランから持ち帰った白いご飯を温めて粥をつくり、
地下のうす暗い部屋でたった一人それをすすった。

そのくせ10ドルを道で拾った時には酒代に消えてしまった。
まるでリストラにあったオヤジ状態。

金はないけど暇だけはあるので、自転車でセントラルパークへ通ってエクササイズしたり、
お隣に住むアパートの管理人であるプエルトリカンのお兄ちゃんと昼間からビールを飲んで、
イーストリバーへ行きラテンの音楽をガンガンにかけて踊ったりした。

ようやく就職先が見つかった。ミッドタウンにある某コンピューター会社でプログラマーアナリストという
一丁前な肩書きをもらうこととなる。

同社で働きだしてから2年目、
ハーレムの安アパートで一人暮らしをし、趣味ではじめたホームページ「ハーレム日記」が人気となった。
地元紙デイリーニュースも取材にやってきた。(その記事のリンク

さらに、NYでライターとしても活動を始め日本のコンピューター雑誌やファッション雑誌に執筆をはじめた。

その後、ジャマイカンアメリカンの男性と結婚、
長男と双子の女の子を出産。年子な上に双子という、ものすごくハードな育児ではあるが、
ライター活動を続け、NY1page.comサイトを立ち上げウェブマスターとなった。

☆☆☆

NYへ来てからというもの、何が起こってもくじけないという自信が持てたし、
夢は追い続ける限りかなうのだと信じることができるようになった。

それはもちろん私だけの力だけでできることではなく、周囲の友人や日本の家族が支えてくれるからだ。
自分一人で生きていくのはとうてい不可能だということも、NYへ来たおかげで悟った。

最後に、どうしてそんなに苦労してまでNYで暮らしたいのか?と、日本にいる人たちからよく質問される。

一緒に暮らしている主人はもちろん、向こう三軒両隣に住む者すべて国籍が違う。
毎日出会う人が別の国の人であり、ふれあう文化の違いや考え方の違いに斬新さを感じることが、
私にとって楽しく暮らせる場所なのだ。

どんな事も決まりごとがあるようでなく、人はそれぞれに違っていることが当たり前。
もちろん学歴社会ではあるが、誰にでも可能性はあると信じて渡航者は後を断たず、NYのパワーは限りない。

貧乏との闘いが楽しいのもNYだからこそ。
その貧乏だった時代も、過ぎてしまえば楽しい思い出だ。

倒産した会社の社長に退職金がわりにもらったコンピューターを自宅で修理してるうち、
いつの間にかコンピューターを組み立てられるようになってしまったり。

それもこれも大人が無邪気になれる時間を与え、年齢を感じさせることがないNYだからこそできることなのだ。

今からだって起業できると信じている。人気作家になれると信じている。
NYは可能性のある人間が可能な限りベストを尽くせば答えが出る場所なのだ。

若い子だけが可能性を与えられ、オバさんには終了の札を掲げられる日本には、
私の居場所がなかったのかもしれない。

義理妹ナディーンと

弘恵ベイリー

北九州市で生まれる。89 年北九州大学経済学科卒。国際関係に興味があり国際経済学の冨安ゼミで学ぶ。89年ジャステック(株)東京にコンピュータープログラマーとして入社。3年後に地元へ戻って結婚。

96年にわずかな貯金を手にして3ヶ月間、単身でNYへ。日系レストランで案内係のバイトをしながら就職活動。1年後、半導体を輸出入する日系の会社へ入社を果たすが、3ヵ月後にあえなく倒産。社長から退職金がわりにもらったPCでコンピューターの新しい分野の技術を独学。
1997年住商コンピューターUSAにプログラマーアナリストとして入社。
2000年、プログラマーを続けながらハーレム在住だったため「ハーレム日記」なるメールマガジンを始めるやいなや
読者が激増。ライターを目指す。日本のテレビやラジオ、米デイリーニュースを含む新聞の取材も受ける。
当時は、NYを知る参考サイトとして「ハーレム日記」が取り上げられたという。04年には書籍化も実現。

女性誌タイプのウェブサイト、カフェグローブでの記事投稿をきっかけに2000年ウェブライターとして認められる。
同時にプログラマーとしての経験を生かしてITライターとして雑誌や専門誌に記事を書く。

さらにウェブサイトallabout「NYで暮らす」にて7年間のガイドを経て現在に至る。
NYの日系フリーペーパーにもコラムの投稿や、ライターとしても活動を続ける。
日本企業のための現地リサーチやテレビ、ラジオ番組のリサーチ、出演など。

NY在住の日本人の間でライター弘恵ベイリーとしての認知度は高い。
ジャマイカン・アメリカンの夫と男の子に双子の女の子をもつ母でもある。<弘恵ベイリー>

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