世界中で一番住みたい所

先日、仕事の合間に久しぶりに1996年から2004年まで八年間住んだ、マンハッタン西56丁目のアパートに立ち寄った。五階建て築100年以上になる古いアパートだ。

最もニューヨークでは築100年を超える建物は当たり前にいくらでもある。
今住んでいるブルックリンのアパートも1900年に建てられた築109年である。やはり地震が無いのと戦災に遭っていないからだろう。

西56丁目のアパートの一階にはアラブ人の家族が経営しているデリマーケットがある。デリといっても日本のコンビニを一回り小さくしたような店である。
その家族は家族4人で同じアパートに住んでいた隣人でもあった。

住んでいた八年間はほぼ毎日のように立ち寄ってなにか買っていたと思う。
まだ小さかった二人の息子も成長するにつれて少しずつ店番をするようになっていた。
数年ぶりに顔を出すとその息子は見違えるように大きく成長していた。
店主のおじさんも僕の顔を覚えていてくれて、本当に“オープンアーム”手を広げて僕を迎え入れてくれた。

ランチタイムだったので、コーンドビーフのサンドイッチを作ってもらいながらしばらく昔話に花を咲かせていた。帰り際に店主のおじさんは缶入りソーダをひとつ、袋に入れてくれて、
僕が遠慮して断ろうとすると、
「久しぶりに会えて嬉しかったよ、いいからもっていけ。」と言ってくれた。ジーンときてしまった。こういう人の温かさは日本でも、外国でも嬉しい。

でも、ニューヨークという街で日本人の僕とアラブ人のおじさんとの間で、こういった心のふれあいがあるというのは正直、本当に心から嬉しいと感じる。
世界中どこに行っても暮らして行けるような気がする。
自分の暮らして行ける場所がカリフォルニア州と同じ大きさのアジアの島国に限られていないと改めて気づくのはやはりすがすがしい感動がある。

アメリカに渡って俳優の勉強をしたいと考えはじめるようになったのは高校2年の時だった。
ダスティン.ホフマンの“Tootsie” を観て感動してニューヨークの俳優達に強い憧れを持つようになっていった。
どうしていいかわからないまま大学に進みそこで留年をずるずると繰り返し、結局五年半、地元名古屋の大学に在学していた。それでもまだ日本を飛び出す踏ん切りがつかなかった。

1990年、なんとか大学を卒業した時、準社員という形で“アルバイトニュース”の学生援護会という会社の営業の職に就いた。
日本は当時、キンキラキンのバブルの絶頂期でアルバイトニュースは女性週刊誌ほどの、新刊のDODAは薄手の電話帳ほどの厚さがあったと記憶している。

その職場でのはじめての日にようやく踏ん切りがついた。
スーツに身を包んで外回りに出された時、本当に考えた。
「俺にはアメリカに行って俳優の勉強をするという夢があったはずだ。」
考えだすと意識が朦朧とし始めた。
「俺はいったいなにをやっているんだろう。」

気がつくと子供の頃に住んでいて遊びなれた名古屋の下町、熱田神宮の界隈を歩いていた。ふらふらとした意識の中で目についた神社に引き寄せられるように立ち寄った。
お昼時だったので神社の大きな岩の上に座って持参したお弁当を広げはじめた。

弁当を食べながらふと目の前の樹齢500年はありそうな大木杉を見上げ時、辺りの静謐さに気づいた。
暗い森の中を彷徨っているうちに突然、陽の当たる小さな草原の踊り場が現れたようだった。霧がスーッと晴れるように静けさが自分の意識に訪れた。
そして大切な言葉がおりて来たと表現するしかない。

「今やらなければこの人生ではもう自国を飛び出す勇気は持てないだろう。」

そして、その足で国際センターに向かいアメリカ留学の資料をもらって来た。
結局その後、留学準備を着々と進めながら学生援護会には6ヶ月勤めた。
8時50分にタイムカードを押して、簡単な朝礼の後、外回りに出される。
バブルの絶頂期、超売り手市場の就職状況の中、準社員の新人の外回りを監督する暇がある社員はいない。
それをいい事にほとんど仕事をしなかった。

外回りの営業に出る足で毎日映画館に通った。ほとんど毎日映画ばかり観ていた。
この時代1990年、91年の頃の映画には今でも相当詳しい。
この場を借りて学生援護会に謝りたい。

いよいよ明日、ニューヨークに旅立つ日本での最後の夜に荷物の整理をしていた時、物置から古い小さな手帳を見つけた。
13歳の時に脳出血で亡くなった母が僕を出産した当時につけていた母子手帳だった。
そこには、若かった母が新しく生まれて来た僕に託していた思いが優しく語りかけるように綴られていた。

「やす君には、立派な偉い人にならなくてもいいから、健康でまっすぐに生きる人生を歩んで欲しいとお母さんは願っています。」
涙が止まらなかった。
「お母さん、このタイミングで俺にこの手帳を見つけさせるのかよ、まったく。」

そして、翌日ニューヨークに旅立った。
あれから18年が経った。

毎年、クリスマスはイリノイ州の妻の実家で過ごす。
家族が集まって、なにをするでもなくクリスマスツリーの前でお互いにこの一年間のことを話し合う。

そんな時、義母が一度、僕たちにこんな質問をした。
「もし今、世界中どこでも好きな所に住めるとしたらどこに住みたい?」
少し考えてからみんな口々に答える
「パリに住めたら素敵だろうなあ。」
「一度でいいからサンフランシスコに住んでみたい。」

考える間もなく僕には答えられる。
「いま住んでる所が世界中で一番住みたい所です。」
これは気持ちいい。<やす鈴木>

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