愛を超えて、すべてに広がる心 ― 慈悲心をワシントンで


今年の6月、ニューヨークで大愚道場が開かれたとき。大愚和尚がバガン遺跡について語られていたお話が、ずっと心に残っていた。

「仏教を“生きた教え”として感じたい」そう思った大愚和尚は、インドやシルクロード、そしてミャンマーを旅したという。中でも忘れられないのは、ミャンマー中部にあるパガン遺跡。11世紀から13世紀にかけて建てられた3000を超える仏塔が、今も大地に広がっているのだとか。

「昔、王様が『人々の心の支えになる教えを』と探し出したのが仏教でした。王は自らその精神を示すように仏塔を次々と建立し、その姿を見た貴族や商人たちも『私も』と小さな仏塔を建て始めたのです。気づけば街じゅうがストゥーパだらけ。そのエネルギーを肌で感じたとき、『仏教ってこんなに社会の中で生きているんだ』と思いました。

パガンで感じたのは、仏教を中心に据え、人々が心豊かに調和して暮らす社会の姿でした。歴史書や旅人の記録にもその共同体の美しさが残されています。寺にいて座禅を組むだけでなく、社会そのものを変えていく力が仏教にはある――パガンでそう実感しました。」

今秋ワシントンDCへ再び大愚和尚がいらっしゃる――その知らせをいただいてから、「今回はヨーロッパへ自分が旅行中なので、大愚道場へ参加できないけど、もしアジアを旅するなら、大愚和尚がお話されていたバガン遺跡を一度は見てみたいなぁ~」と、ぼんやり思っていた。

同日、オフィスを出ようとしたとき、数か月ぶりに、親しくしているクリーニングレディーと顔を合わせることとなった。彼女はカンボジア出身で、中学生くらいの男の子を育てる、明るくてフレンドリーな女性だ。

いつものように他愛のない挨拶から入ったのだけど、いつもはやわらかい口調の彼女が、その日はせきを切ったように話始めた。

「7月にタイとカンボジアで対立があったニュース、知ってる?」と彼女に突然、聞かれたのだ。
私は正直に「ロシアとウクライナ、イスラエルとガザのニュースでいっぱいだからか、東南アジアまで追えてないのかも。。。」と、答えた。

「アンコールワットの遺跡は有名だから知ってるよね? カンボジアには、ほかにも遺跡がたくさんあって、タイと国境の遺跡で争いがあって、7月の終わりに撃ち合いがあったのよ」
「えっ、そうなの?」
「うん、プレア・ヴィヒア寺院っていう場所。」

かなり具体的に、どのような状況だったのか凄惨な現場を解説いただいたのだけど、個人の意見なので控えておくことにしよう。

プレア・ヴィヒア寺院はヒンドゥー教の寺院、遺跡をめぐって人が争ってしまう現実に、胸がざわついた。

「私たちの国カンボジアは、小さな国なので、周りに支えてもらったり、守ってもらえなければひとたまりもなくつぶれてしまう。今回のように、他国の人たちからの略奪を許すことはできない。美しい遺跡もたくさんあって、とてもいい国なのです。」と力強く続けた。

普段は明るく冗談を交わす彼女から、そんな言葉を聞くのは初めてで、胸に刺さった。

前回、大愚和尚が強調していたのは「慈悲心」。愛はどうしても家族や恋人など、身近な人に偏りがちだが、慈悲心はそこを超えて、「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように」と願う心だ。

それは知識として頭で理解するものではない。寂しさや痛みにそっと寄り添う感覚として、体で感じてほしいと和尚は語る。その言葉は、国境や宗教、立場を越えて響く。

英語でも日本語でも、文化や国籍を越えて、思いやりの心を広げていく必要と可能性を求めて。

その実践の場として、平和とは、国や宗教や立場を越えて、私たち一人ひとりが向き合うべき課題なのだと大愚道場へ足を運び、感じてほしい。


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